表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怖い話  作者: 健二
縺ゅ↑縺溘′辟。莠九↓謌サ繧後k繧医≧縺ォ
207/494

海神の花嫁


真夏の海岸線を、夕暮れの赤い光が染めていた。波打ち際に立つ私の足元で、引き潮が砂を削っていく。遠くから聞こえる波の音が、まるで誰かの囁きのように感じられた。


「橘さん、もう帰ろうよ」


後ろから友人の声がする。高校二年の夏、私たち三人は夏季研修と称して、古い漁村である望月浜に来ていた。表向きは海洋生物の調査だが、実際は海水浴を楽しみたかっただけだ。


「ちょっと待って」と私は答えた。「何か光るものが見えるんだ」


波間に、微かに青く光るものがある。好奇心に駆られて一歩踏み出した時、突然、背後から老人の声がした。


「そこまでだ、お嬢さん」


振り返ると、地元の漁師らしき老人が立っていた。深いシワの刻まれた顔は、長年の潮風に晒されてきたことを物語っている。


「日が落ちてからの海は危険だ。特にこの浜は」


老人の真剣な表情に、私たちは素直に従った。宿に戻る途中、老人は自己紹介した。望月浜で代々漁を営む村上さんだという。


「この浜には『海神様の嫁迎え』という言い伝えがあるんだ」と村上さんは静かに話し始めた。「毎年夏至の頃、海神様は新しい花嫁を求めて浜辺に青い光を放つ。その光に誘われた者は、二度と戻ってこない」


「そんな…」と友人の小野が笑う。「現代の日本でそんな迷信、信じる人いるんですか?」


村上さんは険しい表情になった。「五年前、高校生の女の子が行方不明になった。彼女が最後に見られたのは、ちょうど今日と同じ日の、同じ時間、同じ場所だった」


私たちは背筋が凍る思いだった。村上さんは続けた。


「望月神社には、海神様を祀る祠がある。明日は祭礼の日だ。できれば参拝してほしい」


翌日、私たちは村上さんに言われた通り、小高い丘の上にある望月神社を訪れた。古い石段を上がると、本殿の横に「海神祠」と書かれた小さな祠があった。


祠の前には、青い布で包まれた人形が供えられている。よく見ると、それは若い女性の姿をした人形だった。


「あれは何だろう?」と友人の川村が首をかしげる。


その時、神社の宮司らしき中年の男性が現れた。


「海神様への供物です」と彼は静かに答えた。「昔から、海の安全と豊漁を祈願して、海神様に花嫁人形を捧げる風習があります」


宮司は私たちに、望月浜の言い伝えを詳しく説明してくれた。


「かつてこの村では、実際に若い娘を海に沈める人身御供の風習があったと伝わっています。江戸時代に禁止されてからは、人形に代わりましたが…」


宮司の目が、一瞬だけ悲しげに曇った。


「五年前、高校生の少女が行方不明になった事件をご存じですか?」


私たちは頷いた。


「彼女は、村の風習を研究していた民俗学者の娘でした。父親の研究に興味を持ち、夏至の夜、独自に調査をしていたようです」


その夜、私は奇妙な夢を見た。青い光に包まれた海の中、白い着物を着た少女が立っている。彼女は私に手を伸ばし、何かを訴えようとしていた。


目が覚めると、体が汗でびっしょりだった。時計を見ると午前2時13分。窓の外から波の音が聞こえる。そして…かすかな鈴の音。


翌朝、友人たちは海へ行くと言い出したが、私は気分が優れず宿に残ることにした。村上さんが差し入れてくれた古い本「望月浜史」を読んでいると、衝撃的な記述を見つけた。


「海神の花嫁は、三年に一度選ばれる。夏至の満月の夜、青い光に導かれた娘は海神の国へ行き、再び戻ることはない。しかし、その年は豊漁と安全が約束される」


本のページをめくると、明治時代の記録があった。


「村娘お露、海神の花嫁として選ばれる。彼女の恋人である漁師の太郎は、お露を取り戻すため海に入るが、二人とも帰らず」


さらに驚いたのは、最後のページだった。そこには五年前に行方不明になった少女の記事が貼られていた。少女の名前は望月澪。宮司の言っていた民俗学者の娘だ。


記事の横に、赤ペンで書き込みがあった。


「今年、再び花嫁が必要となる」


恐怖で体が震えた。今年…それは今のことだ。そして、今日は夏至の満月の夜。


宿を飛び出し、浜辺に向かった。友人たちを見つけなければ。携帯に何度も電話するが、圏外で繋がらない。


浜辺に着くと、すでに日は傾きかけていた。遠くに小野と川村の姿が見える。二人は何かに気を取られているようだった。近づくと、波間に青い光が揺らめいているのが見えた。


「ダメ!そこに行っちゃダメ!」と叫んだが、海からの風に声が攫われる。


二人は膝まで海に入っていた。その時、波間から一人の少女が現れた。白い着物を着た少女。夢で見た彼女だ。


「戻って!」と必死に叫ぶ。小野が振り返り、不思議そうな顔をした。


「橘?何言ってるの?そこに誰もいないよ?」


川村も首を傾げる。「青い貝殻を見つけただけだよ」


二人には見えていないのか。私の目には、少女が手招きしているのがはっきりと見えるのに。


その時、浜の端から走ってくる人影があった。村上さんだ。


「下がれ!今日は満月だ!」と彼は叫んだ。


突然、海が大きく波立ち、友人たちを飲み込もうとした。村上さんが駆け寄り、二人を引き上げる。そのまま砂浜に転がるように避難した私たち。


海を見ると、白い着物の少女は悲しそうな顔で私たちを見ていた。そして、ゆっくりと海中に沈んでいく。


「あれは…」と私は震える声で言った。


村上さんは重々しく頷いた。「望月澪さんだ。海神に選ばれた花嫁だよ」


宿に戻った私たちに、村上さんは真実を話した。


「この村には、古くから『海神の花嫁』という風習があった。かつては実際に若い娘を海に沈めていたが、今は人形で代用している。しかし…」


村上さんは一度言葉を切った。


「五年前、澪さんという女の子が行方不明になった。彼女は民俗学者の娘で、この風習を調査していた。夏至の夜、一人で浜に来た彼女を見たのは私だ」


「助けなかったんですか?」と小野が詰め寄る。


村上さんは悲しげに首を振った。


「助けようとした。しかし…彼女は自ら海に入っていった。海の中から青い光が彼女を招いていた。私の目の前で、彼女は海に消えた」


村上さんによれば、澪は村の古文書を研究し、海神の花嫁の真実を知ってしまったという。花嫁は生贄ではなく、海神の国への使者となり、村を守る役割を担うのだと。


「澪さんは、自分が望月家の末裔だと知った。望月家は代々、海神の花嫁を出す家系だったんだ」


その夜、私は再び夢を見た。澪が私に語りかけてくる。


「私は選んだの。村を守るために。でも、もう十分。これ以上の犠牲は必要ないわ」


目覚めると、枕元に青い貝殻が置かれていた。誰も入った形跡のない部屋に。


最終日、私たちは望月神社を再び訪れた。宮司に昨夜の出来事を話すと、彼は深いため息をついた。


「澪さんは、最後の花嫁だったのかもしれません。彼女の父親は、この風習の真実を明らかにしようとして亡くなりました。事故ではなく…村の一部の人間による仕業です」


宮司は古い箱を取り出した。中には、澪の父親が残した研究資料があった。


「これを持ち帰り、公表してください。この風習を終わらせるために」


帰京後、私たちは澪の父親の研究資料を大学の民俗学者に託した。資料には、望月浜の海神信仰が、実は江戸時代の大飢饉の際、漁に出た男たちが生き残るため、女性たちを犠牲にした歴史の隠蔽だったことが記されていた。


それから一年後、望月神社の海神祠は正式に閉じられ、代わりに望月澪さんの慰霊碑が建てられた。


私は今でも時々、あの青い貝殻を手に取り、澪の言葉を思い出す。


「もう十分。これ以上の犠牲は必要ないわ」


海は時に命を奪うが、同時に多くの命を育む。私たちは海を畏れ敬う心を忘れてはならない。しかし、畏れを口実にした犠牲は、もう必要ないのだ。


---


日本各地の沿岸部には、海神や龍神を祀る神社が多く存在します。特に漁業が盛んな地域では、海の安全と豊漁を祈願する祭りが今も続いています。


歴史的に見ると、日本では自然災害や不漁を鎮めるために人身御供の風習があったことが記録に残っています。特に有名なのは、能登半島の「左義長祭り」の原型とされる風習で、かつては若い娘を海に沈めていたという言い伝えがあります。


実際、1965年、新潟県の小さな漁村で起きた高校生の失踪事件は、地元では「海神の花嫁」として語り継がれています。当時の新聞記事によれば、夏至の夜に一人で海岸に出かけた女子高生が行方不明になり、捜索にも関わらず発見されなかったそうです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ