月待ちの宿
夏休み、SNSで話題の「心霊スポット巡り」に興味を持った私たち5人は、山奥の古い温泉旅館「月待ち荘」を訪れることにした。廃業寸前の旅館だと聞いていたが、格安で泊まれるという口コミに惹かれたのだ。
「なあ、本当にこんな場所で大丈夫か?」
車を降りた瞬間、親友の健太が不安そうに言った。確かに、山道を30分も走った先にある旅館は、想像以上に古びていた。江戸末期に建てられたという木造の建物は、夕暮れの中で不気味な影を落としている。
「言い伝えでは、この辺りは『月待ちの里』って呼ばれてるんだって」
クラスメイトの真琴が言った。「毎月15日の満月の夜、この山に住む神様が湖に姿を映すとき、願い事が叶うんだって」
「でも、その代わりに何かを持っていかれるらしいよ」
彼女の親友の美奈が小声で付け加えた。
受付で鍵を受け取ると、年配の女将さんが私たちを見つめて言った。
「お若い方が5人も...珍しいねぇ。今夜は満月だから、窓の外をあんまり見ないほうがいいよ。特に、午前0時からの3時間はね」
私たちは互いに顔を見合わせた。本当に心霊スポットだったのか?それとも観光客向けのパフォーマンスなのか?
部屋に案内されると、それは予想以上に広く、古めかしくも手入れの行き届いた和室だった。障子の向こうには庭と山の湖が見える。
「あの湖が月待ちの湖って言うんだって。今日は15日だから、まさに伝説の夜じゃん」
陽気な幸介が言いながら、荷物を下ろした。
夕食は立派な懐石料理。食後、温泉に入って疲れを癒し、部屋で話をしていると、不意に館内放送が鳴った。
「本日はお月見の特別な夜です。午後9時より、湖畔で月待ち神事を行います。ご希望の方は玄関にお集まりください」
好奇心から、私たちは参加することにした。湖畔には既に何人かの宿泊客と地元の人々が集まっていた。白装束の神主が現れ、簡素な祭壇の前で祝詞を唱え始めた。
「月の神様、あなたの光で私たちを照らし、道を示してください」
神事の間、不思議な緊張感が漂っていた。満月が湖面に映る瞬間、水面が銀色に輝き、まるで別の世界への入り口のように見えた。
儀式が終わり、部屋に戻った私たちは、怖い話で盛り上がっていた。時計は23時30分を指していた。
「なあ、もうすぐ0時だぞ」
健太が窓の外を見ながら言った。「女将さんの言ってた時間だ」
「怖がってるの?」
真琴が冗談めかして言ったが、彼女自身も少し緊張した様子だった。
0時になった瞬間、部屋の電気が突然消えた。
「停電?」
懐中電灯を持っていた幸介が明かりを灯すと、障子に人影が映っていた。
「誰か外にいるの?」
美奈が恐る恐る尋ねたが、返事はない。
その時、障子がゆっくりと開き始めた。私たちは息を殺して見つめていた。しかし、開いた障子の向こうには誰もいなかった。代わりに、湖の満月がこれまでになく明るく輝いていた。
「月が...動いてる?」
確かに、湖面に映る月が通常の動きとは違う方向へ移動しているように見えた。
そのとき、ふと目に入ったのは湖畔に立つ一人の女性だった。白い着物を着て、長い黒髪を風になびかせている。
「あれ誰だろう...」
皆で見ている間に、女性はゆっくりと振り返った。月明かりに照らされた彼女の顔には、目も鼻も口もなかった。
恐怖で声も出ない私たちを尻目に、彼女はゆっくりと湖に入っていった。水面に入った彼女の体は、月の光と共に溶けるように消えていった。
次の瞬間、部屋の奥から何かが落ちる音がした。振り返ると、幸介の荷物から一冊の古い日記が床に落ちていた。
「これ...僕のじゃない」
幸介が震える手で日記を開くと、古びた紙に達筆な文字で書かれていた。
「明治二十三年八月十五日。今日も月を待つ。彼が帰ってくると信じて...」
その日記は、明治時代に月待ち荘に滞在していた女性のものだった。彼女は戦争に行った恋人の帰りを待ち続け、最後は「月の神様が連れていってくれるなら」と書き残して失踪したという。
「これってさっきの...」
言いかけた時、窓の外から何かが私たちを見ているような気配がした。カーテンの隙間から覗くと、湖畔に立っていた白い着物の女性が今度は旅館の庭にいた。そして、私たちの窓をじっと見上げている。
「出てきて...一緒に月を待ちましょう...」
女性の声が風のように部屋に流れ込んできた。
パニックになった私たちが部屋を飛び出すと、廊下で女将さんとばったり出くわした。
「やっぱり来たか...」
女将さんは深いため息をついた。「毎年、満月の夜には現れるんだよ」
私たちは震える声で目撃したことを話した。女将さんは私たちを大広間に案内し、月待ち荘の真実を語り始めた。
この旅館は元々、明治時代に軍人の療養所として使われていたという。戦争で傷ついた兵士たちが療養するなかで、月待ちの伝説が生まれた。満月の夜に湖に映る月に願いを捧げれば、病が癒えると信じられていたのだ。
「あの女性は、明日香さんといってね。恋人の帰りを待ち続けた末に、ついに湖に身を投げたんだよ。でも、彼女の魂は成仏できず、今でも月の晩に現れては、一緒に月を待つ人を探しているんだ」
「でも、なぜ私たちの部屋に...」
私が尋ねると、女将さんは幸介を見た。
「あなた、どこかで彼女の持ち物に触れたでしょう?」
幸介は顔色を変えた。「さっき神事の時、湖のそばで古い櫛を見つけて...記念にポケットに入れちゃったんだ」
「それだ。彼女の遺品に触れた者を、彼女は自分の代わりに連れていこうとするんだよ」
女将さんの指示で、幸介はポケットから取り出した櫛を神棚に置いた。女将さんは神主を呼び、夜通し祈祷が行われた。
翌朝、何事もなかったように朝日が昇った。女将さんは「無事で良かった」と言いながら、私たちに不思議なお守りを渡した。
「これは月待ち神社の月待ち守り。あなたたちを守ってくれるよ」
帰り際、湖を最後に見ると、水面は静かに朝日を映していた。しかし一瞬、水中に白い着物の女性が微笑んでいるように見えた気がした。
数日後、幸介が高熱を出して入院した。意識がもうろうとする中、彼は白い着物の女性が病室に立っていたと言い、そして不思議なことに、彼の病室の窓からは満月が見えたという。それは新月のはずの夜だった。
退院した幸介は、それからというもの、毎月15日になると必ず湖のほとりで月を見るようになった。彼は「月が私を呼んでいる」と言うが、私たちには何も聞こえない。
あれから一年、私たちは再び月待ち荘を訪れた。幸介の様子が心配だったからだ。女将さんは「彼女は寂しいだけなのよ」と言い、幸介を湖畔の神社に連れて行った。
そこで行われた特別な祈祷の後、幸介の様子は元に戻った。彼は「もう声が聞こえない」と言った。その夜、湖面に映る満月は普通の月に戻っていた。
帰京後、私は地元の図書館で月待ち荘について調べた。すると驚くべき事実が分かった。明治時代、実際にその地域で「月待ちの儀式」を行っていた記録があったのだ。そして、明日香という女性が失踪した記録も残されていた。
さらに、昭和初期から現在に至るまで、毎年8月15日の満月の夜には、湖畔で白い着物の女性を目撃したという記録が複数残されていた。特に興味深いのは、その女性を見た人々が共通して「何かを失った後、新たな何かを得た」と証言していることだった。
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この物語は創作ですが、日本各地には「月待ち」にまつわる伝承が実際に存在します。月の満ち欠けに合わせて行われる「月待ち講」は、江戸時代から続く民間信仰の一つで、特に女性たちによって守られてきました。
2005年、福島県の山間部にある古い旅館で実際に起きた不思議な出来事が報告されています。毎月15日前後の満月の夜になると、ある特定の部屋で宿泊客が「白い着物の女性が窓の外に立っている」と訴えるケースが複数あったそうです。旅館側が調査したところ、その部屋は戦前、若くして亡くなった女性が使っていた部屋だと判明しました。
また、2012年には長野県の湖畔にある旅館で、夏の満月の夜に湖面から白い霧のようなものが立ち上り、人の形になったという目撃証言が複数ありました。