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怖い話  作者: 健二
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霊峰の呼び声


「山には入っても、山の声には決して応えてはならない」


夏休み、私は友人たちと日本屈指の霊峰・御嶽山の麓にあるキャンプ場を訪れた。高校二年の僕たち五人は、来年の大学受験を控え、これが最後の夏の思い出になるかもしれないと張り切っていた。


キャンプ場に到着すると、管理人の老人が私たちを見て眉をひそめた。


「若い衆が山に登るのはいいが、気をつけなさい。明日は山の神様の祭日だ」


友人の健太が冗談めかして「神様に何かお供えした方がいいですか?」と尋ねると、老人は真顔で頷いた。


「山には三つのルールがある。一つ、自分の名前を大きな声で言ってはならない。二つ、自分の名前を呼ぶ声がしても振り返ってはならない。三つ、日没後に山頂付近を歩いてはならない」


私たちは半信半疑で聞いていたが、老人は続けた。


「この山には『山姥』と『木霊』がいる。山姥は迷った人間を捕まえて食らうという。木霊は人の声を真似て、深い森に誘い込む。特に、今夜は『山の口開き』の日。山の神様が里に降りてくる日で、山の精霊たちが活発になる」


説明を終えると、老人は五つの小さな木札を渡してくれた。「山の神様の御札だ。首にかけておくといい」


キャンプの設営を終え、私たちは夕暮れ前に近くの小さな山道を散策することにした。登山というほどではない、ハイキングコースだ。老人の話は都市伝説だろうと笑い飛ばしながらも、念のため全員が御札を首から下げた。


夕日が山の向こうに沈みかけた頃、私たちは引き返すことにした。その時だった。


「純一、こっちだよ」


友人の一人、純一の名前を呼ぶ女性の声が森の中から聞こえてきた。純一は立ち止まり、きょとんとした顔で周りを見回した。


「誰か俺の名前を呼んだ?」


他の四人は首を振った。純一は肩をすくめ、再び歩き始めた。しかし、数分後、また同じ声が聞こえた。今度はより近く、より親しげに。


「純一、待って。こっちに来て」


純一は立ち止まり、声のする方向を見つめた。「あれ、あそこに誰かいない?」


薄暗い森の中、白い服を着た女性が立っているように見えた。彼女は手を振り、純一に近づくよう促しているようだった。


「おい、行くなよ」と私が止めたが、純一は既に一歩踏み出していた。その時、リュックから落ちた御札が地面に転がった。


「あっ」と純一が御札を拾おうとしゃがんだ瞬間、森の奥から獣のような唸り声が聞こえた。白い影は一瞬で森の中に消え、私たちは恐怖に駆られて走り出した。


キャンプ場に戻ると、老人が焚き火の前で私たちを待っていた。事情を話すと、彼は厳しい表情で告げた。


「木霊だ。名前を呼ばれたら決して応えてはならない。特に、あなたの名前を知らないはずの誰かが呼んだら」


その夜、テントの中で私たちは眠れずにいた。外では風が木々を揺らし、時折奇妙な音が聞こえる。まるで誰かが名前を呼ぶような、しかし言葉にはならない囁きのような音だった。


深夜、純一が突然起き上がった。


「トイレ」と一言言って、テントを出て行った。


十分経っても戻らない。心配になった私たちが外に出ると、純一の姿はなかった。懐中電灯を持って周囲を探したが、キャンプ場には誰もいない。管理人の小屋に行くと、老人も不在だった。


恐怖に駆られながらも、私たちは森の入り口まで行ってみた。そこで、薄暗い月明かりの中、純一が森の方へ歩いていくのが見えた。


「純一!」と叫ぶと、彼は振り返った。しかし、その表情はどこか虚ろで、まるで夢遊病者のようだった。


「帰らないと。山の声が呼んでる」


私たちが駆け寄ると、純一は突然我に返ったように目を見開いた。


「どうしたんだ?なんで俺、こんなところに…」


この時、森の奥から複数の光が見えた。松明だった。白装束の男性たちが列をなして山から下りてくる。山伏の姿だった。


彼らは私たちに気づくと、近づいてきた。先頭の年配の山伏が厳かな声で言った。


「今夜は山の神様が降りてくる特別な夜。山の精霊たちが活発になる。あなたたちは危険な目に遭いかけた」


彼らは私たちをキャンプ場まで連れ戻し、簡素な祈祷を行った。その後、リーダーの山伏は説明してくれた。


「この山には古くから『彷徨いの精』が住むと言われている。彼らは迷った魂を集め、山の力にしようとする。特に若い魂を好む」


山伏たちは、伝統的な護符を私たち全員に授けた。「これを身につけていれば、彷徨いの精はあなたたちを見つけられない」


翌朝、私たちは急いでキャンプを畳み、山を後にした。帰り際、老人の姿はどこにもなかった。管理棟で聞いてみると、若い女性スタッフは首を傾げた。


「おじいさんの管理人?ここには年配の管理人はいませんよ」


さらに驚いたことに、私たちが泊まったはずのキャンプサイトは、「数年前から使われていない」と言われた。


帰宅後、私は図書館で御嶽山の歴史を調べた。すると、50年前の新聞記事を見つけた。「山岳修行中の山伏5名が遭難、全員行方不明に」という見出しだった。記事には5人の写真が載っており、その中に私たちに護符をくれた年配の山伏と、キャンプ場の老人管理人の若かりし頃の姿があった。


数週間後、純一から連絡があった。彼は毎晩、山からの声で目が覚めるという。声は彼に「帰っておいで」と囁くそうだ。彼の部屋の窓からは、遠く離れた山の稜線が見えるという。


私たちは再び御嶽山を訪れ、地元の神社で祈祷を受けた。神主は古い文書を見せてくれた。


「『山の神の召し』と呼ばれる現象です。山の精霊に名前を呼ばれた者は、いずれ山に帰らなければならない。しかし、正しい祈りを捧げれば、その呪縛から解放される場合もある」


私たちは神主の指導の下、古式ゆかしい儀式に参加した。儀式の中で、純一は「山の神様、私はあなたのものではありません」と三度唱えた。


儀式を終えた後、純一は晴れやかな表情で言った。「声が消えた。もう聞こえない」


それから一年が経った。私たちは全員無事に大学に進学し、あの夏の出来事は遠い記憶になりつつあった。


しかし先日、純一から不思議な写真が送られてきた。彼が大学の山岳部で登った山の頂上で撮ったもので、背景には見覚えのある老人と5人の山伏が微かに写っていた。メッセージには「彼らは私を見守ってくれているんだ」とだけ書かれていた。


山には神々が住み、精霊が宿る。彼らは時に人を惑わせ、時に人を守る。私たちが体験したのは、その両方だったのかもしれない。


---


日本の山岳信仰は古代から続く深い歴史を持ち、現代にも様々な形で残っています。特に御嶽山、羽黒山、白山などの霊山には、多くの不思議な体験談が伝わっています。


2005年、長野県の御嶽山で実際に起きた不思議な出来事が記録されています。単独登山をしていた30代の男性が悪天候で道に迷った際、不思議な白装束の老人に遭遇したといいます。老人は無言で男性を安全な下山ルートまで導き、振り返った瞬間に姿を消したそうです。後に男性が地元の神社で当時の話をすると、神主から「それは山の神の使いだったのでしょう」と言われたとのこと。


また、2010年には、山形県の月山で登山中の大学生グループが濃霧に巻かれ、方向感覚を失った際、何度も自分たちの名前を呼ぶ声を聞いたと証言しています。声に導かれるように歩いていくと、突然霧が晴れ、安全な登山道に出ることができたといいます。しかし、彼らの名前を知っている人は周囲にいなかったそうです。


山岳信仰研究者の間では、古来より山には「結界」があるとされ、その境界を越える際には特別な作法や心構えが必要だと考えられてきました。現代の登山ブームの中で、こうした伝統的な山との付き合い方が忘れられがちですが、山岳遭難救助隊の記録によると、毎年不可解な遭難事故が報告されており、中には「何者かに名前を呼ばれて道を外れた」という証言も少なくありません。


東京大学民俗学研究室が2018年に行った調査では、山岳地帯に住む高齢者の約35%が「山の声」や「木霊」の体験を持っていると回答しています。特に興味深いのは、そうした体験をした人々の多くが「恐怖」ではなく「畏敬」や「親しみ」を感じたと答えている点です。


日本の山は私たちに恵みを与えると同時に、時に命を奪うこともある存在です。古来からの山岳信仰は、そうした山の二面性への敬意から生まれたものかもしれません。現代科学では説明できない現象も、山との共生の知恵として受け継がれてきたのです。


山に入る際は、今一度「山の神様」への敬意を忘れないようにしたいものです。そして、もし山で自分の名前を呼ぶ声が聞こえたら…振り返らないことです。

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