螢の渡し
「七夕の夜、川に流れる灯火を追うな。あれは生きて返れぬ者たちの魂だから」
高校二年の柏木美咲は、そんな祖母の言葉を思い出していた。東京から遠く離れた祖母の家がある山間の村に、夏休みを利用して帰省していたのだ。
美咲が訪れたのは七月初旬。田舎の夜は想像以上に暗く、星空が広がる美しさの一方で、どこか不安を感じさせる静けさがあった。
「おばあちゃん、この辺りって蛍がたくさんいるの?」夕食後、美咲は何気なく尋ねた。
祖母の表情が一瞬こわばった。「ええ…いるわね。でも、あんたは『蛍見』には行っちゃいけないよ。特に七夕の夜はね」
「どうして?」
「この村には『螢の渡し』って言い伝えがあるんだ」祖母は声を落として続けた。「七夕の夜、川に現れる蛍の列は、あの世とこの世を繋ぐ道になるって言われてる。それを追いかけると、帰ってこれなくなる」
美咲は半信半疑だったが、祖母の真剣な表情に何も言い返せなかった。
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村の公民館で開かれた夏祭りの準備を手伝っていた美咲は、同じ高校生の河村誠と知り合った。地元の高校に通う誠は、美咲に村の歴史や伝説を熱心に教えてくれた。
「この村には昔から水神様を祀る習慣があるんだ。川の主と呼ばれる神様がいて、毎年七夕の日に祭りを開いて、水の恵みに感謝するんだよ」
美咲が祖母から聞いた「螢の渡し」の話をすると、誠は少し困ったような表情をした。
「あぁ、そのことか。実はそれ、この村の暗い歴史なんだ」
誠によれば、百年ほど前、この村では七夕の夜に川で不慮の事故が起きたという。祭りの最中、酔った若者たちが川に入り、増水した流れに飲まれて命を落としたのだ。
「それ以来、七夕の夜に川の近くで蛍が列をなして光るのを見ると、事故で亡くなった人たちの魂が川を渡っていくように見えるって言われてるんだ」
「でも、蛍はどこにでもいるじゃない?」美咲は理解できないという表情で尋ねた。
「この村の蛍は普通じゃないんだ」誠は声を潜めた。「列をなして流れるように飛び、まるで誰かを誘っているみたいなんだ。実際、数年前にも…」
誠の話は途中で切れた。祭りの責任者が彼を呼び、それきり話は続かなかった。
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祭りの前日、美咲は村の古い資料館を訪れた。「螢の渡し」について知りたくなったのだ。
資料館の古い新聞の切り抜きには、確かに誠の話した事故のことが書かれていた。しかし、それだけではなかった。七夕の夜、この村の川では不思議な現象が頻繁に目撃されるという記録も残されていた。
「七月七日の夜、川面に無数の光が浮かび、時に人の姿に見える」
「列をなす蛍の光は、天の川の星のようだという村人も」
「蛍に導かれ、川に入った者は二度と戻らぬという言い伝え」
そして最も衝撃的だったのは、十年前の記事。
「七夕の夜、蛍を追って川に入った高校生が行方不明に。三日後、遺体で発見」
その高校生の名前は河村勇二。美咲は息を呑んだ。河村――それは誠と同じ苗字だった。
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七夕の夕方、美咲は祖母に尋ねた。
「河村誠のお兄さんって、十年前に亡くなったの?」
祖母は驚いた表情を見せた後、深いため息をついた。
「誰から聞いたの?…そうよ、勇二くんは誠くんの兄さん。蛍を研究していたんだけど、七夕の夜に川で溺れて…」
「誠くんは何も言わなかったの?」
「あの子、兄さんのことはあまり話したがらないのよ。特に事故のことはね」
その夜、美咲は祭りに向かう前に、祖母から固く約束させられた。
「絶対に川には近づかないこと。特に蛍が見えたら、追いかけちゃダメ」
祭りは賑やかに始まった。太鼓の音、屋台の匂い、浴衣姿の人々。しかし、誠の姿はどこにも見当たらなかった。
「誠くんなら、さっき一人で川の方に行ったよ」と、祭りの手伝いをしていた男子が教えてくれた。
美咲は不安になった。今日は七夕。そして誠の兄が亡くなった日でもある。
祭りの喧騒を離れ、美咲は川へと向かった。暗闇の中、次第に聞こえてくる水の流れる音。そして、かすかな光。
川辺に近づくと、美咲は息を呑んだ。
水面に映る無数の光。それは確かに蛍だったが、普通の蛍とは違っていた。青白い光が川の流れに沿って一列に並び、まるで天の川のように見える。そして、その光の先には誠の姿があった。
「誠くん!」
美咲の声に、誠はゆっくりと振り返った。その顔は月明かりに照らされて青白く、どこか虚ろな表情をしていた。
「美咲さん…綺麗でしょ、この光」誠の声は遠く感じられた。「兄さんが見ていたのは、こんな景色だったんだ」
誠は一歩、水に近づいた。
「やめて!戻って!」美咲は叫んだ。
しかし誠は振り返らず、さらに一歩踏み出した。膝まで水に浸かっている。
その時、蛍の光の中から人影が現れた。月明かりに照らされたそれは、誠によく似た若い男性の姿だった。
「兄さん…」誠の声が震えた。
幻のような人影は手を差し伸べ、誠を招いているようだった。
美咲は恐怖で体が震えた。しかし、誠を放っておくわけにはいかない。勇気を振り絞って川辺まで走り、誠の腕を掴んだ。
「帰りましょう、誠くん。これは幻よ」
「でも、兄さんが…」
「あなたのお兄さんは、あなたに死んでほしいと思わない」美咲は必死に訴えた。「あなたが生きていくことを望んでいるはず」
その時、蛍の光の中の人影がゆっくりと頷いたように見えた。そして、静かに手を下ろした。
一瞬、誠の体から力が抜けた。美咲は彼を支え、二人で岸に上がった。
振り返ると、蛍の列は次第に散り始め、人影も消えていた。残ったのは、普通の蛍が点々と光る穏やかな夜の風景だけだった。
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翌朝、美咲と誠は村の水神様を祀る小さな祠を訪れた。二人は静かに手を合わせ、誠の兄の冥福を祈った。
「昨日は…ありがとう」誠は小さな声で言った。「毎年七夕になると、兄さんの姿が見えるんだ。でも昨日、初めて兄さんが笑顔で手を振ってくれた」
「もう追いかけたりしないでね」美咲は言った。
「うん。兄さんも、きっとそれを望んでいるんだと思う」
その日の午後、美咲は祖母に昨夜のことを打ち明けた。祖母は青ざめた顔で話を聞き、最後に深いため息をついた。
「よく無事だったね。『螢の渡し』は本当だったんだよ」
祖母によれば、村では古くから水神様に祈りを捧げることで、川の災いから身を守ってきたという。しかし、時に水神様は美しい蛍の光に姿を変え、生きた人間を誘うこともあるのだと。
「でも、誠くんのお兄さんは…」
「人の姿をした水神様じゃないよ」祖母は静かに言った。「あれは本当に勇二くんの魂かもしれない。七夕は天と地の境目が薄くなる日。だからこそ、あの世とこの世を繋ぐ『螢の渡し』が現れるんだよ」
美咲が村を離れる日、誠は駅まで見送りに来てくれた。
「また来年の夏も来る?」誠は照れくさそうに尋ねた。
「うん、でも七夕の夜は、祭りで一緒に過ごそうね」美咲は答えた。
二人が別れる直前、誠は小さな紙袋を美咲に渡した。開けてみると、綺麗な風鈴が入っていた。
「水神様の祠で祝福してもらったんだ。これを飾っておけば、どんなに遠くても、お互いの安全が守られるって」
美咲は風鈴を大切に持ち帰り、窓辺に吊るした。夜風に揺られるたび、その音色は彼女に誠のことと、あの不思議な蛍の光の記憶を思い出させた。
遠く離れた村で、誠もまた同じ風鈴を窓辺に吊るし、来年の夏を待っていることを知っていた。
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日本の各地には、蛍と水辺の神秘的な伝承が数多く残されています。特に七夕の時期に現れる蛍は、魂の化身とされることが多く、古くから畏怖の対象とされてきました。
実際、岐阜県の山間部にある小さな村では、毎年七月上旬に「蛍送り」という儀式が行われています。これは川で亡くなった人々の霊を慰め、同時に水の恵みに感謝する行事です。村人たちは小さな灯籠を川に流し、蛍の光とともに先祖の魂を送ると言われています。
2005年、この村で興味深い現象が報告されました。七夕の夜、通常は点在して飛ぶはずの蛍が、一直線に並んで川の流れに沿って飛ぶ姿が目撃されたのです。地元の生物学者が調査しましたが、蛍がこのような整然とした隊列を組む生態学的理由は見つかりませんでした。