雷神の血筋
夏休みの始まり、私は帰省のため東京から祖父母の住む山形県の小さな村へと向かっていた。十年ぶりの帰省。私が七歳の時に両親と共に上京して以来、この村には戻っていなかった。
電車を降り、バスに乗り換え、さらに三十分ほど歩いて、ようやく辿り着いた祖父母の家。山と森に囲まれた小さな集落の中にある古い民家だった。
「春樹、久しぶりだな」
祖父は相変わらず頑丈な体つきで、風雪に耐えた顔は深いしわが刻まれていた。
祖母は温かい笑顔で迎えてくれた。「お帰りなさい。もう高校生になったのね」
その日は特に蒸し暑く、遠くで雷が鳴り始めていた。
「あぁ、雷様がお怒りだ」祖父が空を見上げながら呟いた。
「雷様?」
祖父は頷き、「この村では雷神様を大切にしているんだ。昔から特別な関係があってな」と言葉を濁した。
夕食後、祖父は神棚の前で何やら祈りを捧げていた。その横には、私が子供の頃見たことのない小さな祠があり、中には雷の形をした金色の飾りがあった。
「あれは何?」と尋ねると、祖父は「雷神様の依り代だ」と答えた。
夜、私の部屋に祖父が訪ねてきた。
「春樹、お前はもう十七歳だ。話しておかねばならないことがある」
祖父は古い木箱を持っていた。箱の中には、古びた巻物と、小さな雷の形をした黒い石があった。
「これは雷石といって、我が家に代々伝わるものだ。雷神様から授かったと言われている」
祖父の話によると、この村は昔、大干ばつに見舞われたという。人々が飢えに苦しんでいた時、村の若者が山頂で必死に雨乞いをした。すると突然の落雷があり、若者は直撃を受けたが、不思議なことに死ぬことはなかった。
代わりに若者の体には奇妙な雷紋が現れ、その日から雨が降り始め、村は救われた。若者は雷神の使いとして崇められ、その子孫が祭祀を担うようになったという。
「その若者が、お前のご先祖だ」
私は半信半疑で聞いていた。
「そんな昔の話を今更…」
祖父は深刻な顔で続けた。「問題は、ここ数年、雷神様の祭りを行う者がいなくなったことだ。我が家が最後の血筋だが、お前の父は村を出て行き、祭りを拒否した。今年の祭りを行わなければ、村に災いが起きると言われている」
その夜、激しい雷雨が村を襲った。窓から見える空は稲妻で裂け、轟音が家を揺らした。
就寝後、真夜中に目が覚めた。部屋が妙に明るい。窓の外を見ると、庭に不思議な青白い光が立ち込めていた。
ふと見ると、庭に人影があった。長身の男性が立っている。しかし顔の代わりに、青白い炎のようなものがゆらめいていた。
恐怖で声も出ない。その瞬間、男は私の方を向き、青い炎の中から赤い眼が光った。
「次の祭りの主は、お前だ」
声は雷のように頭の中で響いた。
翌朝、祖父に話すと、彼は神妙な面持ちで言った。「雷神様が、お前を選んだようだ」
その日から、祖父は私に祭りの作法を教え始めた。七日後の「雷神祭」で行う儀式の準備だった。
「雷神様は、ただの自然現象ではない。この世と異界の境に住む存在だ。儀式を通じて、その力を借り、村を守ってきたんだ」
しかし、私の心の中には疑念があった。雷神など本当に存在するのか?祖父は年老いて迷信にとらわれているのではないか?
そんな疑問を抱えたまま、祭りの前夜を迎えた。
再び激しい雷雨が村を襲った。夜中、私は雷鳴に目覚めた。窓の外を見ると、またあの青白い光が見えた。今度は家の前の広場に広がっている。
不思議に思い、家を出てみると、光の中に複数の人影があった。村の古老たちだ。しかし、彼らの目は虚ろで、顔には奇妙な雷紋が浮かび上がっていた。
「祭りの主よ、なぜ迷う」
声は古老たちの口から同時に発せられた。しかし、それは彼らの声ではなかった。
「私は…信じられないんです」と正直に答えた。
すると古老たちの体から青白い光が抜け出し、一つに集まり始めた。それは巨大な人の形になった。頭には角のようなものが生え、全身が稲妻で包まれている。
「信じぬ者に、真実を見せよう」
雷神は手を伸ばし、私の額に触れた。
その瞬間、頭の中に様々な映像が流れ込んできた。遠い昔、村を襲った干ばつの光景。必死に雨乞いをする若者。落雷の瞬間。そして、若者の体に現れた雷紋。
それは私の体に今もある、不思議な痣と同じ形だった。
「お前の血には、我が力が眠っている」
雷神の言葉に、私の体が熱く感じられた。額から始まり、全身に電流が走るような感覚。痛みではなく、むしろ力が湧き上がるような感覚だった。
「明日の祭りで、力を解放せよ」
雷神の姿は稲妻と共に消え、古老たちも我に返ったように見えた。彼らは私を見ると深く頭を下げ、それぞれの家へと帰って行った。
翌日、祭りの日。村の広場には村民が集まり、中央には雷神を象った像が置かれていた。祖父は私に白い装束を着せ、額に墨で雷紋を描いた。
「儀式は、お前の血に眠る力を呼び覚ます。雷神様と繋がり、村に恵みの雨をもたらすんだ」
儀式が始まり、私は教えられた通りに祝詞を唱え、雷石を掲げた。最初は何も起こらなかったが、次第に空が暗くなり始めた。
雲が渦を巻き、風が強まる。村人たちは恐れつつも、期待の眼差しで見守っていた。
私の体が熱くなり、額の雷紋が灼けるように感じた。頭上から雷鳴が轟き、空に大きな渦が形成された。
そこから一条の稲妻が私めがけて落ちてきた。
恐怖で目を閉じた瞬間、雷が私を直撃した。しかし、痛みはなかった。目を開けると、自分の体が青白い光に包まれているのが見えた。
雷石が輝き、その光が四方に広がる。村人たちは驚愕の表情を浮かべていた。
私の意識は半ば朦朧としていたが、何かが体の中で目覚めたのを感じた。額の雷紋が熱く脈打ち、体中に力が巡っていく。
やがて空から大粒の雨が降り始めた。干ばつに苦しんでいた村の田畑に、恵みの雨が降り注いだ。
儀式が終わり、雨の中、村人たちは歓喜の声を上げていた。祖父は私の肩を抱き、「よくやった」と言った。
その夜、祖父は私に真実を話した。
「実は、お前の父が村を出たのは、雷神の血筋であることを恐れたからだ。彼は十七歳の時、雷に打たれて生き延びた。しかし、その後の力の覚醒を恐れ、都会へ逃げたんだ」
「父さんも、僕と同じ経験を…?」
「そうだ。だが、彼は力を受け入れなかった。お前は違う。お前は力を受け入れ、村を救った」
それから数日後、東京に戻る日が来た。祖父は私に雷石を渡した。
「これからも、雷神様との繋がりを忘れないでくれ。来年の夏も、祭りの時には戻ってきてほしい」
東京に戻った私は、父に全てを話した。父は長い沈黙の後、自分の経験を語り始めた。雷神との出会い、恐怖、そして逃避。
「息子よ、俺には受け入れられなかった力を、お前は受け入れた。誇りに思う」
それから毎年夏になると、私は山形の村に戻り、雷神祭を執り行うようになった。都会の生活と村の祭祀の二つの世界を行き来する生活。
時に、激しい雷雨の夜、窓の外に青白い光を見ることがある。それは雷神からの挨拶だと分かるようになった。
恐るべき存在であると同時に、恵みをもたらす存在。雷神との繋がりは、私の人生に新たな意味を与えた。
雷の轟く夜、人々が恐れる時、私は静かに空を見上げる。
あれは神の怒りではなく、時に警告であり、時に祝福なのだ。
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日本の雷神信仰は古来より深く根付いており、特に農耕文化と密接に関わっています。雷は恐ろしい自然現象である一方、恵みの雨をもたらす神聖な存在としても崇められてきました。
実際に日本各地には「雷神社」が存在し、雷除けや雨乞いの祈願が行われています。特に有名なのは京都の上賀茂神社や、栃木県の雷電神社です。
興味深いのは、日本各地に残る「落雷生存者」に関する記録です。1987年、新潟県の山間部で起きた事例では、山岳ガイドの男性が雷に打たれながらも一命を取り留め、その後、不思議な能力を持つようになったと報告されています。彼の体には樹枝状の痕(リヒテンベルク図形)が残り、気象の変化を体で感じるようになったと証言しています。
2005年には岩手県の農家で、雷に打たれた後、頭痛や体調不良に悩まされていた男性が、地元の神社で祓いを受けた後、症状が改善したという記録もあります。彼は後に地域の祭事に関わるようになりました。