「あなたのそばにある未登録アクセサリ」
水曜の夜、退勤ラッシュで詰まった中央線の車内。私は iPhone を取り出し、ふと画面に浮いた半透明の警告に気づいた。
「“所有者不明の AirTag” が近くにあります。
この AirTag があなたの現在地を共有している可能性があります。」
AirTag――バッグや鍵に付けておく紛失防止タグだ。去年、アップルが「ストーカー対策で警告機能を強化した」とニュースになっていた。が、私は AirTag を持っていない。
電車を降り、スマホの指示どおり「探す」アプリで音を鳴らす。耳を澄ますと、鞄の奥ではなく、ホームの人波の中からかすかな“ピン……ピン……”という電子音が聞こえた。だが音源はすぐに途切れ、その夜は見つけられないまま帰宅した。
翌朝、自転車で駅へ向かう途中、再び警告が出た。今度は徒歩3分圏を示す矢印付きのレーダー画面が現れ、半径が縮むごとに細いバイブが掌を叩く。矢印が民家のブロック塀を指した瞬間、アプリが固まり、「接続が断たれました」とだけ残した。
なにかの誤作動だと自分に言い聞かせながら職場へ着くと、デスク上に茶封筒が置かれている。差出人なし、宛名はシールで剥がされた跡。開けると銀色のコイン大の金属片――AirTag だった。そして小さな手書きメモ。
「失くし物を探しています。電池が切れる前に戻してください。
帰り道は迂回しないほうが安全です」
震えた。思わず総務課へ駆け込み、社内CCTVを調べてもらったが、封筒を置いた人物は映っていない。レンズの死角か、あるいは同僚のいたずらか。いずれにせよ仕事中に頭から離れず、私は AirTag をアルミホイルで包みロッカーに閉じ込めた。
夜。最寄り駅の改札を出た途端、スマホが再び震えた。画面には赤いびっくりマークと新しいメッセージ。
「位置が更新されました。所有者が付近にいます。」
その瞬間、背後で誰かが咳払いをした。振り向くと、黒いフードを目深にかぶった人物がスマホを耳に当て、横目でこちらを伺っている。荷物はない。私は足を速めた。
アパートへあと百メートルという角で、スマホが大音量で鳴り響く。《SOS・緊急速報》の機能と同じ警告音だが、通知センターには何も残らない。耳鳴りに似た周波数のその音は、ひと気のない路地でぷつりと途切れた。辺りを見回しても人影はない。
その晩、枕元の iPhone は沈黙したまま。しかし未明、ベッド下で“ピン……ピン……”と金属が鳴いた。慌てて灯りを点けると、封筒ごと会社に放置したはずの AirTag が転がっている。アルミホイルは破れ、裏蓋には爪で削ったらしい傷が走っていた。
意を決して翌朝、最寄りの警察署へ AirTag を持ち込み、事情を話した。生活安全課の若い刑事は「最近、国内でも AirTag ストーキングが増えている」とファイルを開いた。
・2022年5月、アメリカ・インディアナ州で元恋人に AirTag を車に仕込まれた男性が射殺。
・2023年2月、兵庫県の巡査が交際相手の車に AirTag を隠し書類送検。
「被害届を出すだけならいいんですが、発信元を特定するには裁判所の令状が要ります。まずは自宅と通勤経路を変えてみて下さい」
刑事は、AirTag を“フタを開けて電池を抜けばただのガラクタになる”と言った。私は目の前で裏蓋を外し、ボタン電池をつまみ上げた。液晶のないタグは小さく音を立てて沈黙した。
だが沈黙は数時間しか続かなかった。午後3時、会議室でプレゼン中の iPhone が不意に震え、画面いっぱいに未知のアプリが表示された。「FINDU」。アンインストール履歴にも出てこない。起動すると地図が開き、赤いドットが自宅、青いドットが職場、そして第三のドットが高速道路沿いのサービスエリアで点滅している。
映像ボタンを押すと、見たことのない車内映像が流れた。ダッシュボードに置かれたタグと、ハンドルを握る黒いフードの男。ナンバープレートは泥で判読不能。映像の上にタイマーが走る。
到着予定まで 00:42:17
私は上司に頼み、打合せを抜けて帰宅準備をした。だが改札を抜けた途端、FINDU のマップ上で青ドットが突然分裂し、私の動きと異なる軌跡を描き始めた。まるで二人目の“私”が別の路線を乗り継ぎ、先回りするかのように。スマホのGPSが乗っ取られている――気づいたときには動悸が手遅れなほど速くなっていた。
逃げ道が要る。私は次の駅で降り、人気のないコインロッカーに駆け込んだ。バッグからノートPCを取り出し、タグのシリアルを調べる。アップルの公式サイトに入力すると、「購入店舗:中古買取チェーン」「登録解除:2021/12/02」とだけ表示され、持ち主は不明のまま。
ふいに、周囲のロッカーの扉が一斉にカチ、カチと鳴り始めた。誰かが中央制御盤を操作したように、開閉ロックが同期している。私はロッカー室を飛び出した。
改札へ向かう通路で、FINDU のタイマーがゼロになった。映像が切り替わり、今度は外灯の少ない駐車場が映る。中央に私の自転車、そしてサドルの裏に貼りついた新しい AirTag。映像のフレームが静かにズームアウトし、同じタグがハンドル、ボトルケージ、タイヤバルブへと次々重ねて表示される。まるで「逃げ場はない」と絵解きしているようだった。
私はスマホを握り潰したくなる衝動を堪え、緊急通報ダイヤルを押した。が、音声ガイダンスの前にノイズが入り、甲高い女児の声が割り込んだ。
「──みつけた。あそぼう?」
思わず端末を落とす。床で光る画面に、大手町ビルの Ring カメラのニュース記事が一瞬だけ映り、すぐ真っ黒になった。「あなたの通話は第三者によりリダイレクトされました」という聞いたことのない警告文。
パニックのまま改札を越えると、自転車にも家にも背を向け、別の路線の下り電車に飛び乗った。高架を離れる頃、再びアラート。
「所有者不明の AirTag が近くにあります」
もはや場所は関係ないのだろう。私は電池を抜いたタグをバッグから取り出した。あり得ないことに、電池なしの薄い板が“ピン……ピン……”と震え、中央のアップルロゴが微かに光をにじませた。
帰宅をあきらめ、当てもなく終点の駅で降りた。タクシーに乗り、山中のビジネスホテルへ逃げ込む。部屋は圏外、ようやくスマホが沈黙した。私はタグを洗面所の紙コップに沈め、湯沸かしポットの熱湯を注いだ。
ジュッという小さな音とともにシリコンの縁が縮み、表面に髪のようなヒビが走る。最後の電子音が泡の奥で跳ね、やがて気泡は途切れた。私は安堵して、翌朝フロントに頼み産業廃棄物としてタグを処分してもらった。
月曜。落ち着きを取り戻し出社すると、机の上に荷物転送サービスの袋が置いてあった。差出人は警察署──おそらく被害届の返却物だ。封を開けると、例の AirTag と破れた封筒。添え状にはこうある。
「当署保管の AirTag が未明に所在不明となり、今朝ロッカー室で発見されました。返却します」
私は静かに席を立ち、そのまま会社を辞めた。
エピローグ
いま、臨時のシェアハウスに身を寄せながら、スマホは常時“AirTag捜索モード”にしている。通知は一日に十回を超えたが、もういちいち慌てない。見知らぬタグの点滅を地図上で眺めながら、私は考える。
犯人はたった一人ではないのかもしれない。中古で手放されたガジェット――所有者がいなくなったアクセサリは、ネットの闇市で同士を見つけ、持ち主を逆に“管理者”として選ぶ。
アプリの画面がフリーズし、赤い文字が浮かぶ。
あなたは新しいアクセサリを受け入れました。
次の登録解除はできません。
音もなく、背後で“ピン……”と何かが鳴った気がした。振り向く勇気はまだない。なぜなら、もはやタグが誰のものかではなく、「私がどこまで追跡されても平気か」が試されているのだとわかってしまったからだ。
(了)
――実在の出来事――
・2022年5月、米インディアナ州で元恋人に AirTag を車に仕込まれ居場所を特定された男性が射殺された事件。
・2023年2月、兵庫県警の巡査が交際相手の車に AirTag を取り付けストーカー規制法違反容疑で書類送検。
・2021年12月、東京都内オフィスビルの監視カメラがゼロデイ脆弱性を突かれ、映像が外部配信されたことを総務省が公表。
・アップルが導入した「所有者不明の AirTag が近くにあるとiPhoneに警告する」安全機能(2021年実装)。
AirTag の電池を抜いても、誰かがあなたのスマホに新しい“アクセサリ”を設定し直すかもしれない。ポケットで震える通知を、ただの誤作動と笑えるうちに――場所を変えるか、生活を変えるか。それとも。