祈りの間
「七日間続けて拝めば、願いが叶う」
そう言われて訪れた古い神社の秘密の祈祷室で、私は取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
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高校二年の夏休み、私たち文化研究部は「日本の夏の風習」をテーマに県内の史跡を巡っていた。最後の訪問地は山間の小さな集落にある樹齢八百年の杉に囲まれた「御倉神社」だった。
「この神社には『七日祈願』という特別な儀式があるんです」と地元の案内人である老婆が説明してくれた。「奥の祈祷室で七日間、同じ時間に祈り続けると、どんな願いも叶うと言われています」
「本当ですか?」と部長の真琴が目を輝かせた。「試してみたいですね」
老婆は少し困ったような表情を見せた。「でも、条件があります。途中で辞めたり、儀式を怠ったりすると、神様の怒りを買うので注意が必要です」
私たち五人は好奇心から、その日から七日間、毎晩八時に神社を訪れることにした。最初の日、老婆は私たちを拝殿の奥にある「祈りの間」と呼ばれる小さな部屋に案内した。
「この部屋は通常は開放していないんですよ」と老婆は古い引き戸を開けながら言った。「七日祈願の時だけ特別に使用が許されます」
部屋に入ると、独特の古い香りが鼻をついた。中央に一つの蝋燭が灯され、壁には様々な時代の奉納絵馬が掛けられていた。よく見ると、それらの絵馬には「願い成就」とともに、「約束を守ります」という言葉が必ず書かれていた。
「これから七日間、毎日この時間に来て、蝋燭に火を灯し、願い事を唱えてください」と老婆は説明した。「ただし、七日目まで絶対に欠かさないでください。途中で止めると、取り返しのつかないことになります」
最初の三日間は全員で参拝した。真琴は恋愛成就、健太は野球の試合勝利、美咲は大学合格、俊介は家族の健康を願った。私は父の病気快復を祈った。
四日目、突然の夕立に見舞われた。山道は滝のような雨で、神社へ向かう途中、健太が転んで足首を捻挫してしまった。
「俺、今日は無理だ。お前らだけ行ってくれ」
私たちは不安になったが、老婆の警告を思い出し、残る四人で祈りの間へ向かった。
五日目、真琴が熱を出して参加できなくなった。
「私の分も祈っておいて」とLINEが来た。
残る三人で神社に向かう途中、不思議な現象が起きた。神社への山道で、夕暮れなのに急に周囲が暗くなり、風がないのに木々が揺れ始めた。足元から霧が湧き上がり、視界が悪くなる。
「気のせいじゃない?」と俊介が言ったが、その声は震えていた。
祈りの間に入ると、いつもは一つだった蝋燭が、今日は三つ置かれていた。誰が用意したのだろう?
「もしかして…」と美咲が壁の絵馬に目をやった。「これ、前より増えてない?」
確かに、昨日まで見なかった古びた絵馬が何枚か増えていた。そこには「七日目まで守れませんでした」「どうか許してください」という言葉が書かれていた。
六日目、突然、俊介から連絡が来た。
「今日は行けない。実は…祈りの間で何か変なものを見てしまった。もう行きたくない」
美咲も怖じ気づいた様子だった。「私も何だか気分が悪くて…」
結局、六日目は私一人が神社に向かうことになった。暗くなり始めた参道を歩いていると、後ろから誰かに見られているような感覚に襲われた。振り返っても誰もいない。
祈りの間に入ると、今日は蝋燭が一つだけ置かれていた。火を灯そうとすると、蝋燭から血のような赤い液体が滴り落ちた。恐怖で手が震えたが、約束は守らなければと思い、祈りを捧げた。
その夜、奇妙な夢を見た。祈りの間で、見知らぬ大勢の人々が私を取り囲み、「七日目まで来てください」と繰り返し囁いていた。
七日目の夕方、真琴から電話があった。
「健太が事故にあった。自転車で転んで…意識不明だって」
次に美咲から。「俊介が急に高熱を出して入院したんだって」
震える手で電話を切ると、父から連絡が入った。「急に症状が悪化して、もう長くないかもしれない」
私は恐怖に打ち震えた。これは偶然なのか、それとも…七日祈願を途中で辞めた報いなのか?
迷った末、私は最後の七日目の参拝に向かうことにした。
日が落ち、辺りは不気味なほど静まり返っていた。神社に着くと、なぜか拝殿の灯りが全て消えていた。老婆の姿もない。
恐る恐る祈りの間へ向かうと、扉は少し開いていた。中から蝋燭の明かりが漏れている。
「どなたかいますか?」と声をかけたが返事はない。
恐怖で体が竦みそうになったが、最後の日だけは絶対に欠かせないという思いで、祈りの間に足を踏み入れた。
中には、一人の老婆が座っていた。しかし、それは私たちを案内してくれた老婆ではなかった。もっと年老いた、ほとんど骨と皮だけのような老婆だった。
「あなたが最後の一人ね」と老婆はかすれた声で言った。「よく来てくれました」
「私の友達は…父は…」
「彼らは約束を破った」老婆は冷たく言った。「でもあなたは守った。だから願いは叶う」
その時、部屋の壁に掛けられた絵馬が一斉に震え始めた。よく見ると、それらの絵馬から血のような液体が滴り落ちていた。
「これは…」
「七日祈願を途中で止めた人たちよ」老婆は微笑んだ。「彼らの魂は永遠にここに留まり、次の参拝者を見守ることになる」
恐怖で声も出ない私に、老婆は近づいてきた。
「さあ、あなたの願いを言ってごらんなさい」
私は震える声で、父の病気快復を願った。
老婆は満足げに頷き、壁の一枚の絵馬を指さした。「これがあなたの絵馬よ」
そこには私の名前と「願い成就」の文字が既に書かれていた。絵馬の日付を見て、私は凍りついた。
それは今日の日付ではなく、明日の日付だった。
「どういう意味ですか?」
「あなたの願いは叶います」老婆は不気味に笑った。「あなたの父は病から解放される…あなたがその代わりになることで」
突然、部屋中の蝋燭が一斉に消え、真っ暗になった。恐怖で叫ぼうとしたが、声が出ない。体が動かない。
次に意識が戻った時、私は病院のベッドにいた。父が心配そうに私を見下ろしていた。
「よかった、意識が戻ったか」
父は涙ぐんでいた。「神社の祈祷室で倒れていたんだ。地元の人が見つけてくれて…」
驚いたことに、父の顔色はとても良く、病気が嘘のように回復していた。
「お父さんの病気は?」
「不思議なことに、完全に消えたんだ。医者も説明がつかないと言っている」
安堵と同時に、背筋に冷たいものが走った。窓の外を見ると、病室の窓から神社のある山が見えた。そして、一瞬だけ、山の木々の間に無数の絵馬が揺れるのが見えたような気がした。
その日から、私の体には奇妙な変化が現れるようになった。時々、何の前触れもなく高熱が出る。そして熱が出るたびに、私の皮膚のどこかに小さな絵馬の形の赤い痣が現れるのだ。
医者にも原因がわからないその症状は、毎年夏になると特にひどくなる。そして夢の中で、あの老婆が私に囁くのだ。
「約束は守られました。でも代償はこれからも続きます」
それから三年が経った今、私は毎年七月になると、あの神社に戻り、新しい参拝者に忠告をしている。七日祈願の恐ろしさを、そして一度始めたら最後まで守るべきことを。
でも不思議なことに、神社を訪れる人々には、私の姿が老婆に見えるらしい。そして私の話す言葉も、自分が思っているものとは違うという。
今日も、新しい参拝者たちが祈りの間を訪れる。彼らに何が起こるのか、私にはもう分かっている。
彼らもまた、永遠の祈りの輪に加わることになるのだろう。
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この物語の元になったのは、実際に福島県の山間部にある小さな神社での出来事です。1970年代、地元の高校生たちが夏休みの肝試しとして、この神社の「七日参り」という行事に参加しました。
七日参りとは、七日間連続で同じ時間に参拝すると願いが叶うという地域の風習でした。しかし、この行事に参加した五人のうち三人が途中で体調を崩し、最後まで続けたのは二人だけでした。
不思議なことに、途中で辞めた三人は、その後立て続けに不幸な出来事に見舞われました。一人は交通事故で重傷を負い、もう一人は原因不明の高熱で一週間入院、最後の一人は家族が突然重病になったのです。
一方、最後まで参拝を続けた二人は願いが叶い、その後も特に問題なく過ごしました。この出来事は地元では「七日祈願の呪い」として語り継がれています。
また、2005年には、この神社で実際に「祈祷室」と呼ばれる古い部屋が発見されました。長年使われていなかったその部屋からは、江戸時代から昭和初期にかけての約300枚の絵馬が見つかりました。
絵馬には「七日の約束を守れず、お許しください」「代わりに我が身を捧げます」といった不思議な言葉が書かれていたといいます。現在、この部屋は立ち入り禁止となっており、地元の人々は「魂の集まる場所」として近づかないようにしています。