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怖い話  作者: 健二
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蛍の池の祈り


夏の夕暮れ、遠くで雷鳴が響き始めた時、私はまだ知らなかった。この山奥の村に伝わる「蛍の池」の本当の意味を。


「清水君、もう帰るよ」


友人の声に我に返り、私は池の縁から立ち上がった。高校二年の夏休み、私と友人の岩田は歴史研究部の調査として、この秘境の村を訪れていた。都会の喧騒から離れた場所で、地元の風習や言い伝えを研究するという名目だったが、正直なところ、ただの夏の冒険気分だった。


「ちょっと待って、まだ何か撮りたいんだ」


私はスマホを取り出し、眼前に広がる小さな池の写真を撮った。この「蛍の池」は村人たちが忌み嫌う場所だという。その割に、不思議と美しい場所だった。周囲を木々に囲まれた静かな池は、夕暮れになると水面に蛍が乱舞する光景が見られるという。


「もう行こうよ。ここは日が落ちたら危ないって村長さんが言ってたじゃん」


岩田は明らかに不安そうだった。


「伝説を信じてるの?」私は笑った。「水神様が人を引きずり込むって?」


村に伝わる話によれば、この池には水神様が住んでおり、毎年夏の特定の日に生贄を求めるという。その日を知らずに池に近づいた者は、水中に引きずり込まれるという。しかし、その犠牲者の魂は蛍となって池の周りを飛び交うのだという。


「冗談じゃなくて、雨が降りそうなんだよ。山道が濡れたら帰りづらくなる」


岩田の言葉に、ようやく私も納得して池を後にした。宿泊先の古民家に戻る途中、村の老婆が一人、道端で私たちを待ち構えていた。


「池から帰ってきたのかい?」老婆の目は濁っていたが、鋭く私たちを見つめていた。


「はい、少し調査をしていました」私が答えると、老婆は首を横に振った。


「今日はいけない日だよ。水神様の祭りの日だ」


背筋が寒くなった。しかし、私は科学的な高校生として、そんな迷信を信じるわけにはいかなかった。


「大丈夫ですよ。何も起きませんでした」


老婆は私の腕を掴み、震える声で言った。「気をつけなさい。呼ばれる夢を見たら、決して応えてはいけない。蛍の声に耳を貸してはいけないよ」


その夜、激しい雷雨が村を襲った。古い民家の屋根を雨が打ち付ける音が響く中、私は不思議な夢を見た。


夢の中で、私は再び池の畔にいた。しかし今度は、無数の蛍が水面から立ち上がり、人の形になっていく。水に濡れた着物を着た男女、子供たち。彼らは皆、悲しげな表情で私を見つめ、手を差し伸べていた。


「来て…私たちと一緒に…」


その声は蛍の光と共に頭の中に響いた。


目が覚めると、部屋の窓から微かな光が差し込んでいた。雨は上がっていたが、まだ夜明け前だった。私はベッドから起き上がり、窓に近づいた。


窓の外、庭先に無数の蛍が浮かんでいた。それは夢の続きのようだった。蛍たちは一列に並び、まるで私を池へと誘うかのように、森の方へと続いていた。


私は服を着て、静かに家を出た。岩田を起こす余裕はなかった。蛍の列が消えてしまう前に、この現象を確かめなければならなかった。


森の小道を蛍の列に導かれるまま進んでいくと、池に到着した。池の周りには、昨日よりもはるかに多くの蛍が飛び交っていた。その光景は幻想的で美しく、思わず息を呑んだ。


池の中央に目をやると、水面から上半身を出した女性が立っていた。長い黒髪が水面に広がり、白い着物は水に濡れて体に張り付いている。その顔は美しく、しかし悲しみに満ちていた。


「来てくれたのね」


女性の声は、蛍の光と同じように頭の中に直接響いた。私は恐怖よりも好奇心に駆られ、一歩池に近づいた。


「あなたが…水神様?」


女性は微笑んだ。「そう呼ばれることもあるわ。でも私は、ただこの池で命を落とした一人の女よ」


彼女の話によれば、何百年も前、この村で水争いがあったという。干ばつの年に、貴重な水源であるこの池を巡って村人同士が争い、多くの命が失われた。彼女もその犠牲者の一人だった。


「私たちは死んでからも、この池から離れられないの。毎年、祭りの日には新しい魂を求めて…」


その瞬間、池の水面から無数の手が伸び、水中から人々の顔が浮かび上がってきた。老若男女、様々な時代の衣装を着た人々が、皆一様に悲しげな表情で私を見つめていた。


「一人では寂しいの…あなたも一緒に…」


彼らの声が重なり、蛍の光がますます明るく輝いた。私は恐怖で動けなくなった。足元の地面が湿り気を帯び、まるで池の水が広がってきているかのようだった。


その時、背後から声が聞こえた。


「清水くん!動いちゃダメ!」


振り返ると、村の神主と岩田、そして何人かの村人たちが松明を持って立っていた。神主は古い巻物を開き、祝詞を唱え始めた。


「大幣を以ちて祓い給い…」


祝詞が唱えられる間、池の女性は苦しそうな表情になり、水中から現れた人々も少しずつ沈んでいった。蛍たちは次第に光を弱め、散り始めた。


最後に女性は私に向かって言った。「私たちを覚えていて…この池の祭りを…忘れないで…」


そして完全に水中に消えた。残ったのは静かな池と、数匹の蛍だけだった。


神主が私に近づき、肩に手を置いた。


「無事で良かった。水神様の祭りの日に池に入ると、必ず一人、水神様の花嫁か花婿として連れていかれるんだ」


私は震える声で尋ねた。「あの蛍たちは…」


「そう、皆この池で命を落とした人たちの魂だ。毎年この日、彼らは新しい仲間を求めてさまよう。だが、本当は解放されたいだけなのだ」


岩田は私の腕を掴み、怒りと安堵が入り混じった表情で言った。「バカ!目が覚めたら勝手にいなくなってるし、窓の外に蛍がいっぱいいるから変だと思って神主さんに相談したんだぞ!」


私は頭を下げた。「ごめん…なんか呼ばれた気がして…」


神主は説明した。「蛍の池の祭りは、水の犠牲になった人々の鎮魂祭でもある。本来なら村人が交代で池を訪れ、祈りを捧げるのだが、近年は若者が減り、忘れられつつあった」


その後、私たちは村人たちと共に池の周りに祭壇を設け、供物を捧げ、水神様と池の魂たちの安息を祈った。


不思議なことに、祈りを捧げた後、蛍たちは一斉に空高く舞い上がり、やがて夜明けの光の中に消えていった。


数日後、私たちは調査を終え、村を後にした。しかし、毎年夏になると、私は一人でこの村を訪れ、蛍の池に祈りを捧げることにしている。


時々、夢の中で池の女性に会うことがある。彼女は今、少し穏やかな表情をしている。「私たちを忘れないでくれてありがとう」と言うのだ。


蛍たちも、もはや人を池に誘うことはない。ただ美しく光り輝き、夏の夜を彩っている。彼らは今、ただの蛍ではなく、記憶の光なのだ。


---


この物語の背景には、実際の日本各地に伝わる水辺の怪異と蛍にまつわる伝説があります。


福井県の「蛍ヶ池」では、毎年6月から7月にかけて多くの蛍が見られますが、地元では「池の主の魂」とされています。1957年、この池で水難事故が起きた後、蛍の数が急に増えたという記録が残っています。


また、宮城県の山間部には「人魂蛍」の伝説があり、水死者の魂が蛍になって川や池の周りを飛ぶという言い伝えがあります。1978年の宮城県沖地震の後、津波で亡くなった人々の魂が蛍になって現れたという証言も複数残されています。


2011年の東日本大震災後、宮城県南三陸町では、被災地に通常より多くの蛍が出現したという報告がありました。地元の方々は「亡くなった人々の魂が帰ってきた」と信じ、蛍の出る場所に祭壇を設けて祈りを捧げました。


民俗学的にも、日本では古くから水辺は「あの世とこの世の境界」とされ、特に夏は霊的な存在が行き来しやすい時期とされてきました。蛍は死者の魂の象徴であると同時に、道しるべとしての役割も持つとされています。

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