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怖い話  作者: 健二
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蛍沼の囁き


「あの沼に近づいてはいけない。特に、蛍が舞う夜は。」


高校二年の夏、友人の実家がある山梨の山間の村に遊びに行った時、地元の老人からそう警告された。彼の指さす先には、木々に囲まれた小さな沼が見えた。


「あそこは『蛍沼』と呼ばれているんです。昔、村が水没した場所で…」と友人の健太が説明した。「毎年夏になると、沼の周りに蛍が集まって、不思議な光の輪を作るんだ。地元では『死者の魂』だって言われている」


私たち5人の東京からの高校生にとって、それはまさに「肝試し」に最適な場所に思えた。特に、「蛍の光が最も強くなる満月の夜に行くと、水没した村の姿が見える」という噂は、好奇心をくすぐるには十分だった。


「行ってみようよ。明日、満月だし」と提案したのは私だった。健太は渋い表情を見せたが、他のメンバーが賛同したため、結局は「案内するだけ」と了承した。


翌日の夕方、私たちは沼に向かう山道を歩いていた。日が落ち始め、森の中は徐々に暗くなっていく。健太が懐中電灯を取り出した時、「蛍沼に行くなら、電灯は持っていかない方がいい」と言った。


「なぜ?」


「おばあちゃんが言ってたんだ。人工の光は、水の底に眠る者たちを怒らせるって」


半信半疑ながらも、私たちは電灯を消し、夕闇の中を進んだ。


沼に到着すると、そこはすでに別世界だった。満月の光が水面に反射し、周囲の木々は黒い影絵のように浮かび上がっている。そして何より驚いたのは、無数の蛍が沼の周りを飛び交っていたことだ。


「すごい…」と誰かがつぶやいた。


蛍の光は普通の黄緑色だけでなく、青や紫がかった光も混じっていた。そして不思議なことに、それらは無秩序に飛び回るのではなく、沼の上空で渦を巻くように集まっていた。


「ほら、始まるよ」と健太が囁いた。


沼の中央部から、ごく小さな光の点が水面から立ち上がり始めた。最初は一つ二つだったが、次第に数を増し、やがて何十、何百という光の粒子が水中から浮上してきた。それらは水上で蛍と合流し、複雑な光の模様を空中に描き出した。


「あれは…家の形?」


確かに、光の集合体は小さな家の形を作り、次に道、さらには鳥居のような形状へと変化していった。まるで地図か模型のように、沼の上空に村の姿が浮かび上がったのだ。


「これが水没した村…」と健太が静かに言った。「百年前の大雨で、ダムが決壊して一晩で村が沈んだんだ」


私たちは息をのんで、この幻想的な光景を見つめていた。恐怖よりも畏怖の念が強かった。


そのとき、変化が起きた。


水面から、湯気のようなものが立ち上がり始めた。しかし、それは湯気ではなく、薄い人影だった。最初は輪郭がぼやけていたが、次第にはっきりとした姿になっていく。老人、子供、女性…様々な時代の衣服を着た人々が、水の上に立っていた。


「やばい、マジで出た…」友人の一人が震える声で言った。


私たちは動けなくなっていた。逃げ出したい恐怖と、この光景から目を離せない好奇心が拮抗していた。


水上の人々は、まるで日常生活を送るように動き始めた。井戸から水を汲む女性、田畑で働く男性、道を走る子供たち…。しかし、音はまったくしない。完全な静寂の中での無言劇だった。


「帰ろう」と健太が言った。「これ以上見ていると、向こうに気づかれる」


その言葉に背筋が寒くなった。しかし、遅すぎた。


水上の一人の老婆が、ゆっくりと私たちの方を向いた。彼女の目は空洞のように黒く、私たちを直視していた。彼女が手を上げ、こちらに向かって何かを告げるようなしぐさをした瞬間、すべての蛍が一斉に消えた。


突然の暗闇に叫び声が上がった。


「走れ!」と健太が叫び、私たちは来た道を必死で駆け戻った。


暗闇の中、道が見えず、何度も木の根につまずいた。振り返ると、沼の方向から青白い光が追いかけてくるように見えた。


「立ち止まるな!振り返るな!」健太の声が響く。


ようやく村の明かりが見えてきた時、背後の気配は消えていた。全力で走り、健太の家に辿り着いた私たちは、玄関先で息を切らせながら振り返った。


遠くの山の方角に、一筋の蛍の光が見えたような気がした。


その夜、健太の祖母は私たちに言った。


「蛍沼の人たちは、自分たちが死んだことを知らないんだよ。突然の洪水で村ごと流されて、気がついたら水の底…。だから、毎年この時期になると、かつての生活を取り戻そうとして水の上に現れる」


「でも、なぜ蛍になるんですか?」と尋ねると、祖母はこう答えた。


「魂が行き場を失うと、この世に留まる方法を探すんだよ。蛍は水と火、両方の要素を持っている。水に沈んだ魂が、火の光を借りて現れるんだ。だから蛍は『魂の乗り物』と言われている」


その説明に、私は震えを覚えた。


翌朝、好奇心から私は一人で沼に戻った。昼間の沼は、ただの静かな水たまりに過ぎなかった。しかし、水際に近づくと、一匹の大きな蛍が日中にもかかわらず、目の前を飛んでいた。


驚いて見つめていると、その蛍は水面に向かって飛び、水に触れた瞬間に消えた。そして水面には、小さな波紋だけが残された。


その夏が終わり、私たちは東京に戻った。しかし、あの夜の出来事は鮮明に記憶に残っている。特に、一つの不思議な出来事が。


写真を確認すると、逃げる途中で私が無意識に撮っていた一枚の写真には、背後から追いかけてくる無数の蛍の光が写っていた。よく見ると、その光の中に人の顔のようなものが浮かび上がっていた。老婆、男性、子供…様々な顔が、光の中から私たちを見つめていたのだ。


さらに不思議なことに、その写真を見た健太の祖母は、「この人は確か…」と言って、古い村の写真帳を取り出した。そこには、沼に沈んだとされる村の住民たちの写真が収められていた。


そして驚くべきことに、私の写真に映り込んでいた顔と、写真帳の人物が一致したのだ。


帰京後、私はその体験について調べ始めた。すると、全国各地に「蛍と水没集落」にまつわる言い伝えがあることを知った。特に印象的だったのは、「魂の重さは21グラム」という研究と、「蛍の光は生命エネルギーの一形態」という民間信仰が結びついていたことだ。


私は今でも、夏になると山梨の健太の家を訪れる。そして遠くから、蛍沼の幻想的な光景を眺める。近づくことはないが、時々、沼の方から一匹の蛍が飛んできて、私の周りを一周すると、また沼へと戻っていくのだ。


それは挨拶なのか、警告なのか、今でもわからない。ただ、蛍の光を見るたびに、この世とあの世の境界の薄さを感じずにはいられない。


---


実際に日本各地には、水没した村や集落にまつわる言い伝えがあります。特に、ダム建設によって水没した集落の跡に、特定の日に不思議な現象が起きるという報告は少なくありません。


1960年代に造られた奈良県の室生ダムでは、水位が下がると水没した集落の跡が現れますが、地元では「満月の夜、ダム湖の上に蛍のような光が浮かび、かつての村の形を描く」という言い伝えがあります。実際に1985年、地元の高校生が夏の調査で不思議な発光現象を記録し、その写真は当時の新聞にも掲載されました。


また、2008年には福島県の某ダム湖で、水没地域の上空だけに蛍が異常に集まる現象が確認されています。地元の生物学者の調査によると、通常蛍が生息しない場所であり、その生態からも説明がつかない現象だったそうです。


さらに興味深いのは、2011年の東日本大震災後、津波で流された町の跡地で、夏になると蛍が集まるようになったという報告です。地元の方々は「先祖の魂が戻ってきた」と感じる人も多く、新たな心霊スポットとして語り継がれ始めています。


民俗学的には、水辺は古来より「此岸と彼岸の境界」とされ、特に日本では水の神に対する信仰が根強く残っています。蛍が水辺に生息し、火の光を持つことから「水と火の結合体」として、特別な存在と考えられてきました。


科学的には、蛍の発光は化学反応によるものですが、その光が人の心に特別な感情を呼び起こすことは否定できません。

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