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怖い話  作者: 健二
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19/120

「海抜ゼロのセンサー室」

            

 夜の奥尻島は、海が闇そのものだった。ひゅうと吹く風のほかに音はなく、波打ち際に立つ私は、三脚に据えた LiDAR(光レーダー)のファンが回る微かな唸りだけを聞いていた。

 私は防災科研の嘱託エンジニアで、沿岸自治体が導入を急ぐ「次世代津波監視ネット」の試験責任者だ。センサーが波面の凹凸を解析し、異常を捉えた瞬間に島内全スピーカーへ自動放送を流す――理論上、逃げ遅れゼロを目指すシステム。だが設置場所は、かつて1993年7月12日、奥尻島を高さ30メートルの黒い壁が襲った“あの日”のまったく同じ海岸線だった。


 センサー室と言っても、使っているのは津波で流失した旧漁協倉庫のコンクリ殻だ。外壁だけが残り、窓枠からは満潮の匂いが上がる。私はラップトップでキャリブレーションを走らせ、誤検知の程度を確かめようとログを開いた。そこに奇妙な波形があった。

 発報閾値の3倍を超える急峻なピークが、たった3秒だけ。タイムスタンプは「1993-07-12T22:17:04」。センサーを設置したのは昨日だから、そんな記録があるはずがない。


 その瞬間、倉庫に残る屋外スピーカーが喚いた。ジャリッと途切れ途切れの男声が重なる。

 「……ただいま奥尻町に……大津波警報……高さ十メート……」

 1993年当夜、NHKラジオ第1が流し続けた緊急速報テープの音源とそっくりだった。サンプリングレートまで一致している。私は配線を切ろうと手を伸ばしたが、スピーカーは勝手にボリュームを上げた。


 外へ飛び出すと海は静かだ。しかしプログラムは狂ったようにサイレンを起動し、島中へ防災無線が連動する。“高台へ避難してください”――夜半の住宅地にサーチライトが走り、民家の窓がきしむ音まで聞こえてきた。島民は全員寝ているはずなのに、人影がざわめき、道路を走り抜ける足音が重なる。

 車道のカーブに差しかかったとき、私は言いようのない既視感にとらわれた。白いヘッドライトが遠ざかり、海岸寄りの道が真っ赤に染まる。あの夜、奥尻の西岸では火のついた重油タンクが津波に乗り、集落を火の津波が包んだ。死者の大半は炎に追いつかれて逃げ場を失った――その実況を後年、私は防災研究で幾度も見返した。


 センサーが誤作動を起こすはずはない。機器の時刻はGPS衛星で自動補正され、ログの改ざんも不可能だ。手元の端末はひたすら「1993-07-12」のデータを上書きし続ける。電源を落としても、バッテリーが切れても、再び立ち上がるたび29年前の深夜10時台に戻る。

 私は自分の車に飛び乗り、山側の旧避難路を踏み込んだ。ヘッドライトの先、道路標識がぐにゃりと曲がり、気温計は「1993年7月12日 22℃」と赤く光る。島の時刻表そのものが、あの夜に巻き戻っているかのようだった。


 【奥尻港フェリーターミナル跡】の看板を横目に坂を上ると、道路脇に古いマイクロバスが横転していた。窓ガラス越しに、出血した観光客らしい若者が手を振る。「ここからは行けない、引き返せ!」

 1993年、島を取材していた道内テレビのロケ班が津波に巻き込まれ、車内から最後の録画を残した――私はその映像を思い出す。発見当時、ビデオテープは海水で膨れ、声は何重ものノイズに覆われていた。学会発表の解読音声と、いま私が聞いた若者の叫びは寸分違わなかった。


 クラクションも発進も利かない。キーを回すとラジオだけが点き、1993年の交通情報を垂れ流す。「奥尻町青苗、火災発生」「波高23メートル」。車外で潮風が強くなり、木々の梢が海側へ倒れた。

 私はドアを蹴って飛び出した。逃げ場は、さらに上の神威脇かむいわき高地しかない。裸電球を揺らす神社の鳥居をくぐり、森の坂を登る。途中、湿った土に裸足の足跡がいくつも並んだ。炎に追われた住民が夜の山を走った痕跡だろうか。足跡は途中で止まり、空中へ消えていた。


 峠に立つ避難小屋の前で、私は息をのんだ。据えた記憶のない LiDAR センサーが、そこにも点灯していた。緑のレーザーが暗闇に線を描き、島を俯瞰する3Dマップがホログラムのように宙に浮く。コンクリの海岸線をかすかな青い壁が走り、それがみるみる高くなる――シミュレーション上の津波が実寸大でせり上がっている。

 マップの片隅に「ETA 1993/07/12 22:19」「RUN-UP 31.7m」と古い活字が刻まれた。


 私は背後の小屋に逃げ込み、扉を閉めた。耳を塞いでも、島全体がうなる低音が伝わる。床が震え、壁のポスターが千切れ落ちる。「津波が来たら、高い所へ」。ポスターの下で発電機が唸り、スピーカーが再度、怒鳴った。

 「火の手が! 逃げろ!」

 目の前の窓の外、遠い街の向こうを炎が跳ね上がった。火災旋風が高々と立ち、炎の渦の中心を黒い水柱が突き抜ける。ライブ映像のはずだが、私は確信した――これは過去の再生だ。


 突然、センサー室に残してきたノートPCが Bluetooth 経由でメッセージを送ってきた。

 「システム復旧。時刻同期完了。REALTIME=2024-10-22T22:17:04」

 現在地と過去が完全に重なった時刻――そう理解するより早く、足下の土が抜けた。闇の底で、誰かが膝まで海水に浸かりながら私の足首を掴む。掌は冷たく、しかし指紋が生々しい。93年に取り残された“誰か”が、高地まで流れ着いていたのだ。

 私の首元で、防災無線が最後のサイレンを鳴らす。


 次に目を開けたとき、私は廃倉庫の床に倒れていた。窓の外は灰色の夜明け。海は穏やかで、サイレンも炎もない。ログを開くと「深夜22時台」の記録は跡形もなく消え、最新行にはただ「RUN TEST COMPLETED」の一文だけが残る。

 だがスピーカーの配線には、焼け焦げた痕があった。センサー室へ向かう途中のアスファルトには、裸足の足跡が生々しく乾いていた。火災などないのに、路面が煤で黒く濁っている場所が点々と続く。


 島役場の担当に報告すると、「昨夜サイレンなど鳴っていない」と言う。だが防災センターのプリンタには、一枚の紙が吐き出されていた。

 【自動放送履歴 1993-07-12 22:17 津波警報】

 プリンタのロール紙は新品に交換したばかりで、時刻設定も2024年になっている。それでも印字は31年前の深夜に固定されていた。


 私が本土へ戻る船を待つあいだ、センサーの光は依然として海面を掃いている。一度でも“その時刻”に重なると、システムが過去の周波数を掴み、まだ名前すらつかないエコーを島中に拡散する――そんな危惧が離れない。

 もしあなたが奥尻を訪れ、夜更けに防災無線が突如鳴ったら、時計を見ない方がいい。そこに「22:17」と表示された瞬間、島は再び海抜ゼロになる。


                      (了)


――作品中に引用した実在の出来事――

・1993年7月12日 北海道南西沖地震による奥尻島津波(最大 run-up 31.7m、火の津波を伴い198名死亡)。

・津波到達前後に放送されたNHKラジオの緊急警報放送。

・報道クルーのマイクロバスが津波に遭遇し、カメラが車内から最後の映像を記録した実例。

・奥尻島の青苗地区で重油タンクが炎上し、津波火災旋風が発生した現象。

本編のセンサーやシステム障害は創作ですが、津波の規模・被害・時系列は実際の記録に基づいています。

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