月待ちの涙
「満月の夜、海辺で泣く女を見てはならない」
祖父はよくそう言っていた。私が通う高校の裏手には、小さな入江があり、夏になると地元の人たちが海水浴を楽しむ場所だ。しかし祖父は、満月の夜にはそこに近づくなと幼い頃から私に言い聞かせていた。
「月待ちの女」と呼ばれる悲しい伝説がこの地域には伝わっている。江戸時代、この村に住む漁師の妻が、嵐の夜に出漁した夫の帰りを満月の下で毎晩待ち続けたという。しかし夫は二度と戻らず、妻は悲しみのあまり入江に身を投げたと伝えられている。
それ以来、満月の夜には彼女の霊が現れ、海辺で泣きながら夫の帰りを待ち続けているという。そしてその姿を見てしまった者は、次の満月までに不幸が訪れるという言い伝えだった。
「ただの迷信だよ」と私は思っていた。高校二年の夏、友人たちと肝試しの約束をした私は、満月の夜に一人で入江へと向かった。
その夜は異様なほど静かだった。波の音さえほとんど聞こえない。月明かりだけが海面を照らし、銀色の道を作っていた。
「こんな所に幽霊なんかいるわけない」と独り言を言いながら、私は海岸線を歩いていた。するとふいに、波打ち際に一人の女性が立っているのが見えた。
白い着物を着た女性は、月に向かって何かを話しかけているようだった。その姿はどこか儚げで、月明かりに照らされて半透明にも見える。
「すみません…」と声をかけようとした瞬間、女性はゆっくりと振り返った。顔が見えた時、私は凍りついた。
女性の顔は涙でぬれそぼち、その涙は月明かりを受けて銀色に輝いていた。しかし最も恐ろしかったのは、その涙が流れ落ちる先だった。涙は顎から滴り落ちるのではなく、顔から離れると宙に浮かび、月に向かって上昇していくのだ。
「あなたも待っているの?」女性の声が頭の中に直接響いた。「彼が帰ってくるのを?」
恐怖で言葉が出ない私に、女性は悲しげに微笑んだ。
「待ち人が還らぬ夜は寂しいものね」
そう言うと彼女は手を伸ばし、私の頬に触れようとした。その指先から滴る水は、普通の水ではなく、月の光そのものが液体になったかのように見えた。
死ぬほど怖かった。目を閉じ、全力で走って逃げた。振り返ることもせず、息が切れるまで走り続けた。
翌日、友人たちに肝試しの結果を聞かれた時、私は「何もなかった」と嘘をついた。あの恐怖を言葉にする勇気がなかった。
しかし、その夜から私の周りで奇妙なことが起こり始めた。夜になると窓ガラスに水滴が内側から伝い落ち、その水滴は重力に逆らって上に向かって流れる。月が出ている夜は特に顕著だった。
そして、次の満月が近づくにつれ、「彼が帰ってくるのを待ちなさい」という女性の声が夢に現れるようになった。
不安に押しつぶされそうになった私は、ついに祖父に打ち明けた。話を聞いた祖父は深刻な表情で言った。
「月待ちの女を見てしまったのか。この呪いを解くには、彼女の悲しみを鎮めなければならない」
祖父の指示に従い、私たちは古い漁師の記録を調べ始めた。江戸時代の古文書を辿り、ついに「月待ちの女」と呼ばれた女性の名前と、彼女が身を投げた正確な日付を突き止めた。
「彼女の名は琴音。夫の船が嵐で遭難した後、三十三日間毎晩浜辺で待ち続け、最後の満月の夜に入江で命を絶ったという」
祖父は古い漁師の家系図も調べ、驚くべき事実を発見した。なんと私たち一家は、琴音の夫の弟の子孫だったのだ。彼女の夫が亡くなった後、弟が家を継いで漁を続け、その血筋が私たちにまで続いていたのである。
「だから彼女はお前に話しかけたんだ」祖父は静かに言った。「お前は彼女にとって、最愛の人の血を引く者なのだから」
次の満月の夜、私と祖父は入江に向かった。祖父は古い形の漁師の着物を持ってきており、私にそれを着るよう言った。
「これは琴音の夫が着ていたものと同じ形だ。彼女に、あなたが彼の親族だと分かってもらおう」
震える手でその着物を着た私は、月明かりの下、波打ち際に立った。すると、まるで待っていたかのように、白い着物の女性が海の中から現れた。
「お帰りなさい…」女性は私を見て、涙を流した。今夜もその涙は月に向かって上昇していく。
「琴音さん」祖父が声をかけた。「彼はもう戻りません。しかし、彼の血を引く者たちは、ずっとこの浜で漁を続けてきました。あなたのご主人は海に命を捧げましたが、その志は私たちに受け継がれています」
琴音は混乱したように私と祖父を交互に見つめた。
「どうか安らかにお眠りください」祖父は深々と頭を下げた。「もう十分に待ちました」
私も頭を下げ、「ずっと待っていてくれて、ありがとう」と言った。
琴音の表情が変わった。涙はまだ流れていたが、今度はそれが月に向かうのではなく、自然に頬を伝って落ちていった。彼女はゆっくりと微笑み、私たちに深く頭を下げた。
「ありがとう…もう、待つのをやめます」
そう言うと彼女の姿は月明かりの中に溶けていき、最後には一筋の光となって月へと吸い込まれていった。
その後、私の周りの奇妙な現象は止んだ。窓に水滴が現れることも、夢に声が響くこともなくなった。
しかし毎年、その満月の夜には私と祖父は入江を訪れ、琴音の鎮魂のために海に花を手向ける。そして海を見つめながら、愛する者の帰りを待ち続けた女性の悲しみと、それでも待ち続けることを選んだ強さを思い、静かに祈りを捧げるのだ。
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日本各地の海辺の町には、「月待ちの女」や「海女の霊」など、海で命を落とした人や、海に愛する人を奪われた人の霊にまつわる伝説が数多く残されています。
特に注目すべきは、宮城県の松島湾周辺に伝わる「月待ちの女」の伝説です。江戸時代後期の寛政年間(1789-1801年)、大きな嵐で多くの漁船が遭難した記録が残っています。その際、夫を失った女性が毎晩浜辺で夫の帰りを待ち続け、最後には海に身を投げたという言い伝えがあります。
現代でも、この地域では満月の夜に不思議な現象が報告されています。2008年、地元の漁師が夜間の漁の際、満月の下で白い着物を着た女性が海面に立っているのを目撃したという証言があります。驚いた漁師が近づこうとすると、女性は海中に消えたそうです。
また、2015年には松島湾での海水浴中に溺れかけた男性が、「白い着物の女性に助けられた」と証言しています。周囲には誰もおらず、助けてくれたはずの女性は忽然と姿を消したといいます。
興味深いのは、こうした「月と海の怪異」が単なる恐怖の対象ではなく、時に守護者としての側面も持つという点です。民俗学者によれば、海辺の集落では、海の危険を警告するための教訓として、こうした怪異譚が語り継がれてきたといいます。
科学的には、満月の夜は潮の満ち引きが最も激しくなる大潮の時期と重なることがあり、海の状態が変化しやすいため、光の反射や蜃気楼のような現象が目撃されやすいとも言われています。
それでも今なお、日本の海辺の町では、満月の夜に一人で海に近づくことを避ける人も少なくありません。月の光に照らされた海は美しいですが、時に人の想像を超えた何かが潜んでいるのかもしれません。