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怖い話  作者: 健二
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風鈴の囁き


「風鈴の音が止んだら、決して窓を開けてはいけない」


高校二年の夏休み、私は祖父母の家で過ごすことになった。東京の喧騒から離れた古い温泉街の一角にある木造の家は、築100年を超える古民家だった。


到着した日、祖母は玄関先と縁側に古い風鈴を吊るしていた。ガラス製の風鈴は少し曇っていて、筒状の短冊には「風神様」と墨で書かれていた。


「これは?」と尋ねると、祖母は少し困ったような表情を見せた。


「この辺りでは、夏になると『風送り』という風習があるんだよ。風神様を迎えて、悪い風から家を守ってもらうんだ」


祖父は黙って頷いた後、静かに付け加えた。


「ただし、風鈴の音が急に止んだ時は、風神様ではなく『風渡り』が来たということだ。その時は絶対に窓を開けてはならない」


「風渡り?」


「風に乗って渡ってくる亡者さ。風鈴は生きている者と死者の境目。その音が止むということは、あちらの世界との境が消えたということだ」


私は笑って取り合わなかったが、祖父は真剣な表情で「この地域の言い伝えだ」と言い残して離れに引きこもってしまった。


その夜、私は二階の客間に通された。窓の外には庭の松の木があり、その枝に吊るされた風鈴が、微かな夜風に揺られて涼やかな音を奏でていた。


就寝時、祖母は「風鈴の音が聞こえなくなったら、決して窓を開けないように」と再度念を押した。


「風渡りは風鈴の音が聞こえない隙に入り込もうとする。一度家に入れると、どんどん家族の魂を持っていってしまうんだよ」


古い迷信だと思いながらも、なんとなく不安になった私は、風鈴の音を聞きながら眠りについた。


深夜、突然の静寂に目が覚めた。


風鈴の音が止んでいた。


窓の外を見ると、月明かりに照らされた庭は不自然なほど静かで、木々の葉一枚動いていない。しかし、風鈴だけが誰かに触られたかのように、ゆっくりと左右に揺れていた。


「気のせいだ」と思いながらも、祖父と祖母の言葉が頭に浮かんだ。好奇心と恐怖が入り混じる中、私は窓に近づいた。


窓ガラスに映る自分の顔が見える。しかし、よく見ると、その後ろに別の顔が映っていた。長い髪の女性が、私の肩越しに微笑んでいる。


恐怖で叫び声も出ない。振り返ると、部屋には誰もいない。再び窓に目を向けると、女性の顔は消えていた。代わりに、窓ガラスが内側から曇り始めた。そこに誰かが指で文字を書いていく。


「窓を開けて」


震える手で携帯電話を取り、祖父の部屋に電話をかけた。しかし、通じない。部屋を出ようとしたが、ドアが開かない。


その時、再び風鈴の音が聞こえ始めた。しかし、その音色は昼間のものとは明らかに違っていた。低く、重々しく、まるで誰かが泣いているような音だった。


窓ガラスの曇りが広がり、今度は複数の指で同時に文字が書かれていく。


「私たちを家に入れて」

「寒いから」

「一緒に帰ろう」


恐怖で震えながらも、祖父の言葉を思い出した。「絶対に窓を開けてはならない」


時計を見ると、午前2時13分。お盆の入りの日だった。


窓の外で何かがざわめき始めた。風が出てきたわけではないのに、庭の木々が激しく揺れている。風鈴の音も次第に大きくなり、耳をつんざくような金属音に変わっていった。


ガラス越しに見ると、風鈴の短冊が風もないのに激しく回転している。そして、風鈴の中から何かが這い出してくるのが見えた。最初は煙のようなものだったが、次第に人の形になっていく。


それは顔のない女性の姿だった。長い髪と白い着物。しかし、顔の部分だけが黒い穴のように空洞になっている。


彼女は風鈴から完全に出ると、空中を漂いながら私の窓に近づいてきた。窓ガラスに両手を当て、中を覗き込んでいる。


その時、一階から祖父の声が聞こえた。


「風神様、どうかお守りください!」


祖父が何かの儀式を始めたようだった。風鈴の音が一層激しくなり、窓の外の女性の姿が揺らめき始めた。


「窓を開けて…助けて…」


女性の声が頭の中に直接響いた。その声は悲しげで、どこか懐かしいようにも感じた。思わず手を伸ばしかけた時、部屋のドアが勢いよく開いた。


祖父が立っていた。手には古い巻物と、風神を描いた掛け軸を持っている。


「目を逸らせ!」


祖父の声に従い、窓から目を離した。祖父は素早く掛け軸を壁に掛け、巻物から経文を読み始めた。


窓の外から悲鳴のような風の音が聞こえた。そして突然、風鈴の音が通常の優しい音色に戻った。


静かになった窓の外を恐る恐る見ると、庭には何もなかった。風鈴は微かな夜風に揺られ、穏やかな音を奏でていた。


翌朝、祖父は昨夜の出来事について説明してくれた。


「この地域には『風送り』と『風渡り』という二つの風の精がいるんだ。風送りは良い風を運び、家を守る。一方、風渡りは死者の魂を運ぶ悪い風だ」


祖父によると、昔この地域では風の通り道に家を建てることを避けていたという。しかし、この家は明治時代に風の通り道に建てられてしまった。


「建てた当初から、この家では不思議な現象が起きていた。特にお盆の時期は要注意だ。亡くなった人の魂が風に乗って帰ってくるからね」


祖父は続けた。「しかし、全ての魂が安らかに帰ってくるわけではない。中には生前の怨念を抱えたまま、生者を連れ去ろうとする者もいる。それが風渡りだ」


「では昨夜の女性は…」


「おそらく、かつてこの家に住んでいた誰かだろう。昔、この家では若い女性が行方不明になった事件があった。彼女は嵐の夜に姿を消し、翌日、風鈴だけが庭に落ちていたという」


私は背筋が凍る思いだった。


その日から、私は祖父と一緒に毎晩、風神様への祈りを捧げるようになった。「風送りの風鈴」と呼ばれる特別な風鈴を作り、家の四隅に吊るした。


祖父から教わった古い祝詞を唱え、風神様に家の平安を祈る。すると不思議なことに、どんなに風のない日でも、風鈴はかすかに音を奏でるのだった。


夏休みの終わりが近づいた頃、最後の夜、私は再び風鈴の音が止む現象を経験した。しかし今回は、窓の外に現れたのは顔のない女性ではなく、穏やかな表情の老人だった。


「ありがとう」と老人は言った。「長年の怨念から解放されたよ」


翌朝、祖父に話すと、彼は静かに微笑んだ。


「それは風神様だ。あなたの祈りが届いたんだよ」


それ以来、私は毎年夏になると祖父母の家を訪れ、風送りの儀式を手伝うようになった。そして時々、風のない夜に風鈴が鳴ると、それが風神様の訪れだと感じるようになった。


風鈴の音が止む時、それは必ずしも恐ろしいことばかりではない。時には、遠い世界からの優しい挨拶かもしれないのだ。


---


日本には古くから風に関する様々な信仰があります。特に夏の風物詩である風鈴は、単なる涼を取る道具ではなく、邪気を払う霊的な意味を持つとされてきました。


風神信仰は日本全国に広がっており、特に台風や強風の多い地域では「風神祭」が今も行われています。最も有名なのは京都の八坂神社の「風鎮祭」で、悪い風を鎮め、良い風を招く儀式です。


実際に1923年、静岡県の山間部で起きた不思議な出来事が記録されています。ある家で風鈴の音が突然止み、その直後に家族全員が原因不明の高熱に見舞われたといいます。地元の神主が風神の祈祷を行った後、症状は収まったそうです。


また、2008年には福島県のある古民家で、風のない夜に風鈴が激しく鳴り続けるという現象が報告されました。家主が調査したところ、その家の敷地内から江戸時代の風祭りの道具が出土し、地元の神社に奉納した後、現象は収まったといいます。


さらに興味深いのは、2015年の調査で明らかになった風鈴の音の特性です。東北大学の音響研究チームによると、特定の周波数を持つ風鈴の音は、人間の脳波をリラックス状態に導く効果があるという研究結果が出ています。これは古来から風鈴が「魔除け」として用いられてきた理由の一つかもしれません。


民俗学者によれば、風鈴の音が「此岸と彼岸の境界を守る」という信仰は、特に西日本の山間部に今も残っているといいます。お盆の時期に風鈴を特別に飾る習慣のある地域もあり、「音が鳴っている間は安全」という言い伝えが残っています。


現代科学では説明しきれない現象も、先人たちの知恵と自然への畏敬の念が形になったものと考えれば、理解できることも多いでしょう。

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