施餓鬼の影客
「供養されない魂は、永遠に飢えに苦しむ」
高校二年の夏休み、祖母の四十九日法要のために帰省した私は、親戚の叔父からそう言われた。田舎の古いお寺で行われる「施餓鬼会」に参加することになっていた。
「施餓鬼って?」と尋ねると、叔父は少し難しい顔をした。
「餓鬼道に落ちた魂に食べ物を施し、救済する儀式だよ。特にお盆前の今の時期は、この世とあの世の境目が薄くなる。だから、餓えた魂たちも近づいてくるんだ」
私は東京育ちで、こうした仏教行事にはあまり馴染みがなかった。しかし祖母は生前、毎年欠かさず施餓鬼会に参加していたという。その遺志を継ぐ形で、今年は家族全員で参加することになったのだ。
「でも一つだけ、気をつけることがある」叔父は真剣な表情で付け加えた。「施餓鬼棚のお供え物は、決して自分で手を出してはいけない。それは亡者のためのものだからね」
翌日、私たちは山の中腹にある古刹・円満寺を訪れた。本堂前の広場には「施餓鬼棚」と呼ばれる大きな棚が設置され、様々な供物が並べられていた。果物、菓子、赤飯など、色とりどりの食べ物が目を引く。
「ここに供えられた食べ物で、餓えた魂たちは救われるんだよ」父が説明してくれた。
法要が始まり、住職の読経が響く中、参列者は焼香を行った。暑い夏の日差しの中、線香の煙が立ち上る様子には神秘的な雰囲気があった。
法要の途中、ふと違和感を覚えた。参列者の中に、見知らぬ人々の姿がちらほら見える。薄暗い服装の老人や、古風な装いの女性たち。地元の人たちなのだろうか。
「あの人たち、誰?」と母に尋ねたが、母は不思議そうな顔をした。
「どの人?」
私が指差した方向を見ても、母には見えないようだった。奇妙に思いながらも、気のせいかと思い、法要に集中した。
儀式が終わると、参列者には「お下がり」として供物の一部が配られた。私も小さな紙袋を受け取った。中には赤飯と果物が入っていた。
「これ、持って帰っていいの?」と尋ねると、叔父は頷いた。
「もちろん。これは『お下がり』だから。でも、寺を出るまでは開けないようにね」
帰り支度をしていると、先ほどの見知らぬ人々が施餓鬼棚の周りに集まり始めた。彼らは誰とも話さず、ただ棚を見つめている。
不思議に思って近づいてみると、老婆の一人が私に気づき、こちらを振り向いた。その顔には目も鼻も口もなかった。
恐怖で声も出ない。視線を外すと、他の人々も同様に顔のない姿だった。しかし彼らの「顔」があるべき場所には、飢えを表すかのような暗い穴が開いていた。
急いで両親の元に戻ろうとした時、背後から声が聞こえた。
「お腹が空いた…」
振り返ると、先ほどの老婆が立っていた。近くで見ると、彼女の体は半透明で、背後の景色がうっすらと透けて見える。
「分けてくれないか…」
彼女は私の持つ紙袋を見つめていた。恐怖で足がすくむ中、叔父の警告を思い出した。「供物は亡者のためのもの」。これは既に「お下がり」として私に与えられたものだが…。
「これを…欲しいの?」震える声で尋ねると、老婆はゆっくりと頷いた。
迷った末、私は紙袋から赤飯を取り出し、老婆に差し出した。彼女は喜んだように見え、赤飯に手を伸ばした。しかし、その手は赤飯を通り抜けてしまう。
「あの世の者は、直接受け取れないんだよ」
突然背後から声がした。振り返ると、寺の住職が立っていた。
「だから施餓鬼の儀式で、私たちが供物を捧げるんだ」
住職は老婆の方を見て、何かお経のような言葉を唱えた。すると老婆の姿はゆっくりと薄れ、消えていった。
「見えたのか」住職は静かに言った。「餓鬼道の者たちが」
私は震える声で説明した。法要の最中から見えていた顔のない人々のこと、そして老婆が話しかけてきたことを。
「珍しいね。あの世の者が見える目を持つ人は稀だ」住職は私をじっと見つめた。「特に君のような若い人では」
住職の説明によると、私が見たのは「餓鬼」と呼ばれる存在で、生前の業により常に飢えに苦しむ魂たちだという。施餓鬼会は彼らを救済するための儀式だが、全ての魂が救われるわけではない。
「特に、強い執着や怨念を持つ者は、なかなか成仏できない」住職は続けた。「君のお祖母さんは、何か心残りがあったのかな?」
「祖母?」
「さっき君に話しかけていた老婆は、君のお祖母さんによく似ていたよ」
その言葉に、私は凍りついた。祖母は顔に大きなアザがあることをとても気にしていた。そのせいで、生前はほとんど写真に写ることを拒んでいたのだ。
「お祖母さんの遺影はあるかい?」住職が尋ねた。
父が財布から取り出した遺影写真を見て、私は息を呑んだ。確かにそれは先ほどの老婆によく似ていた。しかし、写真の祖母にはちゃんと顔があり、穏やかな表情をしている。
「おそらく、お祖母さんは何か心残りがあるんだろう」住職は静かに言った。「だから『顔のない姿』で現れた。自分の本当の心を示せないということだ」
その夜、実家に戻った私は祖母の遺品整理を手伝うことにした。押入れの奥から出てきた古い日記帳に、私は衝撃的な記述を見つけた。
祖母には、私たち家族が知らない子供がいたというのだ。戦後の混乱期に生まれた子だが、貧しさのために手放さざるを得なかったという。その子の名前は「光子」。
「これが祖母の心残り…」
翌日、私は再び円満寺を訪れ、住職に祖母の日記について話した。
「なるほど」住職は頷いた。「子供を手放した罪悪感が、彼女を餓鬼道に引き留めているのかもしれない」
住職の助言で、私たちは戸籍調査を始めた。数週間の調査の末、祖母の第一子・光子が現在も生きていることが判明した。彼女は遠い県で、自分が養子であることを知りながらも幸せに暮らしていた。
お盆の最終日、私たちは光子さんを招いて、再び施餓鬼会に参加した。今回は特別に、祖母のための供養も兼ねていた。
法要が始まると、また顔のない人々が現れた。その中に祖母の姿を見つけた私は、光子さんに彼女の存在を伝えた。不思議なことに、光子さんにも祖母の姿が見えるようだった。
「お母さん…」光子さんが呟いた。
その瞬間、祖母の姿に変化が起きた。顔のなかった場所に、少しずつ目鼻が現れ始めたのだ。そして最後には、遺影と同じ穏やかな表情になった。
祖母は私たちに向かって深々と頭を下げ、ゆっくりと光の中に消えていった。
それ以来、施餓鬼会で顔のない人々を見ることはなくなった。しかし時々、夢の中で祖母が現れることがある。今や彼女の顔はしっかりと見え、いつも微笑んでいる。
光子さんとは今でも交流が続いている。彼女はまるで本当の祖母のように私たちを迎え入れてくれる。そして毎年お盆には、一緒に施餓鬼会に参加するようになった。
施餓鬼棚に供物を捧げながら、私は思う。この世とあの世は、思っているより近いのかもしれない。そして、心の中の飢えこそが、最も苦しい「餓え」なのだと。
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日本各地では今も夏になると施餓鬼会が行われており、特に7月から8月にかけて多くの寺院で見ることができます。