「中性子が降る部屋」
東海村の研究炉「JRR-2」が廃止されて二十年、私は文科省から委託を受け、使用済みフィルムバッジ(放射線被ばく量を測る小さな写真板)をデジタル化している。
十月のある夜、台風接近で職員が早退したあと、私は一人で地下の旧線量管理室に残った。ここには一九九九年九月三十日、臨界事故(ウラン溶液が臨界に達し、中性子線を放出し続けた)の最中にかけられていたバッジラックがそのまま保管されている。
奥の棚を開けると、錆びた鉛箱が一つだけ鍵もかけずに置いてあった。ラベルにはマジックで「Ci‐1」と走り書き。私はその符号を知っていた。事故当時、反応容器の真上で作業していた作業員の個人バッジだ。公式には「測定不能」とされ、どこかへ廃棄されたはずだった。
箱をのぞくと、黒い樹脂ケースの表面が白く曇り、内部で感光板が青黒く焼けていた。まるでチェレンコフ光の残像が定着したように。
線量計は通常、可視光では何も写らない。だが私は試しに走査型フィルムスキャナへ載せ、6400dpi でプレビューをかけた。モニターに浮かんだのは、細い線が蜘蛛の巣状に交差する奇妙な模様。
拡大すると、線の一部がアルファベットと数字を描いていた。
“ GOIANIA 1987 ”
ゴイアニア――ブラジルで医療機器の放射線源が流出し、町全体が被ばくした事件の名だ。事故の二年前、海を隔てた日本のフィルムに、なぜその文字が?
同時に室内の蛍光灯が一斉に明滅した。非常用電源に切り替わるはずのない時間帯だ。耳を澄ますと、換気ダクトの奥から「カチ、カチ」とクリック音が連続する。線量計のガイガークリックに似ていたが、原子炉は停止し燃料も搬出済みのはず。
私は携帯のシンチレーション計をかざした。数値は 0.08μSv/h。自然放射線レベルだ。しかしクリックは壁際の旧型線量モニターから聞こえていた。コンセントを抜いているのに、指針が勝手に振れている。
するとヘッドセットの無線がノイズ交じりに開いた。研究所内は無線ブロッキングがかかっているため、携帯もトランシーバも圏外のはずだ。
「……power…上げるな……therac…」
Therac‐25――八〇年代に北米で六名を過剰照射事故で死亡させた医療用リニアックの機種名。電子制御バグが原因で、操作盤には“正常”と表示されたまま患者に百倍の線量が浴びせられた。なぜ、その警告が日本の地下室に飛び込んでくる?
私はドアを開け、廊下へ出た。非常灯が赤く染まり、壁のスピーカーが自動警報を流す。
「臨界が発生しました。青い光を直視しないでください」
これは一九九九年、実際に構内へ流れた非常放送の再現そのものだ。録音は封印され、再生設備も撤去されたと聞いていた。だがサイレンは確かに鳴り、床のタイルが仄青く照らされる。
心音が速くなる。ふと右手の防火扉に、黒い人影が映った。白衣姿の男性。腕章には「放医研」と読める。ゴイアニア事故で被災者救護に当たった日本人医師の写真と同じ人物に見えたが、あり得ない。影は壁をすり抜け、階段室へ溶けていった。
追いかけて階段を降りると、地下二階は完全に停電し、非常灯だけが紫色に明滅する。足元に水たまりが広がっていた。指をつけるとぬるい。ライトを当てると、透明な水ではなく乳白色に濁っている。
私はぞっとした。1986年チェルノブイリ事故後、冷却用の「バイオロジカルシールド」から漏れ出た一次冷却水がまさにこんな色だったと、報告写真で見たことがある。ここは原子炉建屋ではないのに。
靴底が滑り、尻もちをつく。ポケットの線量計が急に警報を鳴らし、数値は 5.3mSv/h へ跳ね上がる。現実とは思えない数値なのに、皮膚は焼けるように熱くない。代わりに、耳の奥でパチパチと静電ノイズが増していく。あれは臨界時に生成される「中性子誘導ノイズ」と解析報告された音。
私は立ち上がり、天井の非常灯を見上げた。ライトのフィラメントが青白く光り、チェレンコフ光を模した輪がにじむ。その中心に、荘厳とも言える一本の数字列が浮かんだ。
2 0 2 4 1 0 1 8
今日の日付より四日後。私は理解した。ここは事故の過去を再生しているだけでなく、未来の「放射線災害」を先取りしている。ゴイアニアは ’87、Therac は ’85〜’87、東海は ’99、そして二〇二四年一〇月一八日――何が起こる?
突如、床の濁った水面が波紋を描き、数字列が水上に反射した。鏡像が歪むにつれ“81012024”という反転数字が浮かび、それが「8/10/2024」――つまり二か月前の日付へ変わる。八月十日、私は長崎の病院で放射線治療機のメンテを担当していた日だ。作業は問題なく終わったはずなのに、ひどい倦怠感で倒れ、検査で原因不明の白血球減少を指摘された。もしあれが被ばくのサインだとしたら?
天井スピーカーから、今度は女性の声が流れた。
「線量計バッジ、重ねたままじゃ測れませんよ」
東海事故で最も被ばくし、83日後に亡くなった作業員の担当看護師が残した言葉と一致した。私は胸ポケットを探る。さきほどスキャンしたフィルムケースが、いつの間にか二枚重なっている。はがして見ると、下の板には何も写っていない。上の板だけが暗く焼けた文字を刻む。
“open 10/18”
階上へ戻る途中、ガイガークリックがふいに途絶えた。蛍光灯が一斉に白く戻り、サイレンも消え、床の水たまりは跡形もなく乾いていた。携帯の線量計は再び 0.08μSv/h を示す。
だが壁に掲げられた事故慰霊碑の前で足が止まる。銘板の一番下に、まだ金文字の入っていない空欄が一行残っていた。そこへ私の名字が映り込む。照明の反射ではない、刻印のような実体で。
意識が遠のく前に、私は震える手で重ねたフィルムケースの封を切り、薄い感光板を取り出した。光の下に透かすと、文字はもう見えず、代わりに蜘蛛の巣状の線が新たに走る。
グラファイトの線をたどると、再び浮かんだ。
“когда́ угодно, но не сейча́с”
ロシア語で「いつでもいい、ただ今ではない」。チェルノブイリ1号機の廃炉作業員が、再臨界の兆候を示す泡を見たときにメモへ書いた走り書きと同じ文言。
私はそっとケースを閉じた。多分、この板を開ける日はやって来る。だが「今」ではいけない。
(了)
――作品に登場する実在の事故・事象――
・1999年9月30日 茨城県東海村JCO臨界事故(作業員3名被ばく、2名死亡)。
・1987年9月 ブラジル・ゴイアニアで医療機器のCs-137線源流出事故(249人被ばく)。
・1985–87年 医療用リニアック Therac-25 過照射事故(少なくとも6名死亡)。
・1986年 チェルノブイリ原発事故で報告された再臨界の可能性。
作中の未来日付・青白い光・地下室の現象は創作だが、すべての引用は現実の放射線災害に残された言葉と数値に基づいている。