川の主の警告
真夏の炎天下、私たち高校生三人組は、夏休みの自由研究のために地元の小さな川へ水質調査に出かけた。田舎町に住む幼なじみの誠と彼の従兄の健太、そして私の三人だ。
「この川、昔から『忘れ川』って呼ばれてるんだ」誠が説明した。「地元の人は夕方以降、この川に近づかないようにしてる」
「なんで?」私は興味を持って尋ねた。
「川の主が怒るからだって。特に夏は危ないらしい」
健太は東京から来た都会っ子で、そんな話を聞いて鼻で笑った。
「まさか本気にしてないだろ?単なる迷信だよ」
私たちは午後から川沿いを歩き、数カ所で水のサンプルを採取した。夏の日差しは強く、汗だくになった私たちは、つい川に足を入れて涼んでしまった。
「気持ちいいね!」健太が言った。「こんなきれいな川で泳げたら最高なのに」
「だめだよ」誠は慌てて制した。「この川で泳ぐのは禁止されてるんだ」
しかし健太は聞く耳を持たなかった。「こんな暑いのに、もったいないじゃん」
気がつくと、健太は服を脱ぎ捨て、川に飛び込んでいた。確かに魅力的だった。七月の暑さは容赦なく、水面は誘惑的に輝いていた。
「おいでよ!超気持ちいいぞ!」
誠はためらっていたが、私も暑さに負け、健太に続いて川に入った。水は予想以上に冷たく、心地よかった。しばらく水遊びを楽しんだ後、私は不思議なものを見つけた。川底に光るものがある。
「あれ何だろう?」
私は潜って手を伸ばした。それは古い石の置物のようだった。苔むした石で、人の顔のような形をしている。川底から引き上げると、誠が驚いた声を上げた。
「それ、河童の石像だ!絶対触っちゃダメなやつ!」
「何言ってるの?ただの石でしょ」健太は笑った。
その時、急に風が強まり、空が暗くなってきた。先ほどまで快晴だったのに、厚い雲が太陽を覆い、辺りの空気が冷たくなった。
「やばい、帰ろう」誠が不安そうに言った。
急いで服を着て帰り支度をしていると、川の流れが変わったような気がした。先ほどまでゆるやかだった水の流れが速くなり、水位も上がってきたように見える。
「上流で雨が降ったのかな?」私が言うと、誠は首を横に振った。
「雨じゃない。川の主が怒ってるんだ」
健太は依然として冷静だった。「迷信を信じるなよ。天気が変わっただけだ」
家に帰る途中、私はあの石像を持ち帰ってしまったことを告白した。
「え!?返さなきゃダメだよ!」誠は真剣な顔で言った。「おじいちゃんが言ってた。川のものは川に返さないと、川の主が取りに来るって」
「大げさだなぁ」健太は呆れた様子だった。
その夜、激しい雨が降り始めた。窓を打つ雨音が、まるで誰かが叩いているかのようだった。寝ようとしたが、なぜか眠れない。頭の中で水の流れる音が聞こえてくるのだ。
真夜中過ぎ、私は奇妙な夢を見た。川の中に立つ緑色の生き物が、私を見つめている。長い髪が水中でなびき、手には私が持ち帰った石像があった。その生き物は口を開けて何かを言おうとしているが、言葉は水の音に消されてしまう。
ハッと目が覚めると、部屋の床が濡れていた。雨漏りかと思ったが、窓は完全に閉まっている。それなのに、床には水たまりができ、そこには水草のような緑の植物が浮いていた。恐怖で体が震え、すぐに電気をつけた。すると、水たまりも植物も消えていた。
翌朝、誠から電話があった。声が震えている。
「健太が...病院に運ばれたんだ」
昨夜、健太が突然高熱を出し、うわごとを言い始めたという。彼の言葉は意味不明だったが、「水」と「返せ」という言葉を繰り返していたそうだ。
病院に駆けつけると、健太はぐったりとベッドに横たわっていた。医師は原因不明の高熱と脱水症状だと言う。健太の母親は不安そうに私たちに尋ねた。
「昨日、何かあったの?」
私たちは川で遊んだことを正直に話した。誠のおじいさんが病室に来たとき、私は勇気を出して石像のことを告白した。
「川から石像を持ち帰ってしまって...」
おじいさんは深刻な表情になった。
「その石像は川の主の依り代だ。昔からこの辺りでは、川に感謝し、敬意を払う習慣がある。特にあの『忘れ川』は水の神が宿るとされてきた」
おじいさんの話によれば、その石像は百年以上前に川の氾濫を鎮めるために作られたものだという。
「今すぐ返しなさい。そして水の神に謝るんだ」
私と誠はすぐに川へ向かった。昨日の雨で水かさが増し、流れも速くなっていた。元の場所に石像を戻し、心から謝罪した。
「川の主様、無知でした。どうか許してください」
石像を川に戻した瞬間、不思議なことが起こった。一瞬だけ、川面に緑色の影が映ったのだ。そして突然、空が晴れ始めた。
病院に戻ると、健太の熱は下がり始めていた。医師も不思議そうだった。
「急に回復し始めたんです。こんなケースは初めてです」
その夜、私はまた夢を見た。緑色の生き物が川の中で手を振っている。今度はその表情が穏やかだった。目が覚めると、枕元に一枚の葉が置かれていた。どこにでもある川辺の葉だが、よく見ると、水滴が文字のように並んでいる。「気をつけなさい」と読めた。
それから私たちは、川への感謝と敬意を忘れないようにしている。特に夏の間は、川に入る前に必ず挨拶をするようになった。時々、川面に不思議な波紋が広がることがあるが、それは川の主が私たちを見守ってくれている証なのかもしれない。
---
日本各地の河川には古くから水神や河童といった水辺の怪異にまつわる伝承が数多く残されています。特に夏は水難事故が多い季節であることから、子供たちに川や池の危険性を教えるため、こうした伝承が語り継がれてきました。
2008年、岐阜県の小さな集落で「忘れ川」と呼ばれる川から、江戸時代に作られたとされる石の置物が発見されました。地元の古老によれば、この置物は「川の主」を鎮めるために置かれたものだといいます。
また、2012年には宮城県の河川で調査を行っていた研究者が、川底から人面の石像を引き上げた後、原因不明の発熱と幻覚に悩まされたという報告があります。地元の神社で祈祷を受け、石像を川に戻した後に症状は治まったそうです。
水辺の怪異現象の多くは、急な増水や水の反射による錯覚、あるいは水中の藻や生物の動きによる誤認と説明されることが多いですが、日本人の水に対する畏敬の念は古来から続いています。今でも多くの河川には水神を祀る小さな祠が見られ、地域によっては「川開き」の際に水神への感謝祭が行われています。
科学的には説明できない現象も、先人たちの自然への敬意と共生の知恵を伝えるものとして、大切に語り継がれているのです。夏の水遊びを楽しむ際は、自然の力を侮らず、水辺の安全に気をつけることが、現代においても重要なメッセージと言えるでしょう。