青朝顔の約束
梅雨明け間もない七月下旬、私は祖母の看病のため、生まれ故郷の九州の山間の集落に戻っていた。東京での研究職を一時休職し、祖母の住む古い家で暮らすことになったのだ。
祖母は九十二歳。脳梗塞の後遺症で半身が不自由になっていたが、意識は明瞭で、私のことをしっかり認識していた。
「幸子、久しぶりね」
祖母は私の手を握り、涙ぐんだ。十年ぶりの再会だった。
祖母の家は、集落の外れにある築百年を超える古民家だ。子供の頃、夏休みに滞在した記憶があったが、想像以上に古びていた。廊下は歩くたびに軋み、障子には所々穴が開いていた。
「祖母さん、この家、誰か手入れに来てなかったの?」
「ここ数年は近所の人が時々来てくれるけど…」祖母の声が弱々しく響いた。「この家に入りたがる人はいないのよ」
その言葉の意味を尋ねようとした時、突然の雷鳴が轟いた。夕立だった。激しい雨が瓦屋根を叩く音が、古い家中に響き渡る。
「ちょうどいい頃合いね」
祖母は窓の外を見て呟いた。「朝顔の種を蒔くには」
翌朝、雨は上がり、蒸し暑い一日が始まった。祖母の指示で、私は納屋から古い木箱を持ち出した。中には、茶色く変色した紙袋が入っていた。
「これは特別な朝顔の種。毎年この時期に蒔くのよ」
祖母の説明によれば、この朝顔は代々家に伝わる「青朝顔」だという。通常の青い朝顔とは異なり、より濃い藍色で、夕方に花開くという珍しい品種だった。
「でも、なぜ夕立の後に蒔くの?」
「それがしきたりなの」祖母は神妙な顔で答えた。「青朝顔は雷の力を借りて育つの。そして、約束を守るためよ」
約束—その言葉に、何か引っかかるものを感じた。しかし、祖母はそれ以上説明しなかった。
その日の午後、私は家の南側の壁に沿って、種を蒔いた。「ここなら夕日がよく当たるから」と祖母は言った。
日々の看病と家事の合間に、私は祖母から村の歴史や家の由来を聞いた。祖母の家は、かつて「雨乞いの家」と呼ばれていたという。旱魃の際には、この家に住む女性が儀式を行い、雨を呼んだのだと。
「でも、それには代償があってね」
祖母の声が暗くなった。
「雨を呼ぶ力を持つ女性は、五十歳になると、夏の夕立の日に姿を消すの」
「姿を消す?どういうこと?」
「誰にも告げず、雷の音と共に出ていくのよ。そして二度と戻らない」
祖母の母も、その母も、そして代々遡って、皆同じ運命を辿ったという。
「でも、祖母さんは?」
「私は違ったの」祖母は微笑んだ。「私は恋をして、この村を出たから。だから雨乞いの力は受け継がなかった。でも…」
祖母の表情が曇った。
「でも、私の妹は受け継いだわ。そして五十歳の夏、姿を消した」
その夜、私は不思議な夢を見た。雷鳴の中、青い朝顔の蔓に絡まれた女性が、空へと引き上げられていく夢だった。
朝顔の蔓は驚くべき速さで成長した。数日で軒下まで伸び、一週間もすると屋根にまで達していた。しかし、まだ花は咲かなかった。
「花が咲くのを待つのよ」
祖母はそう言いながら、日に日に弱っていくように見えた。食欲も減り、顔色も悪くなっていた。
「病院に行きましょう」と提案しても、祖母は頑なに拒んだ。
「私の時間はもう長くない。だから、あなたに全てを話しておかなければ」
ある夕方、祖母は私を縁側に呼んだ。空は曇り始め、遠くで雷鳴が聞こえていた。
「青朝顔の真実を話すわ」
祖母の声は震えていた。
「青朝顔は、死者の魂が宿る花なの。特に、雨乞いの女たちの」
祖父の話によれば、姿を消した女性たちは実は自ら命を絶ったのではなく、儀式の代償として雷に打たれて命を落としたのだという。そして彼女たちの魂は、青朝顔の種となって残された。
「毎年、私たちは彼女たちの魂を蒔き、花を咲かせるの。それが、彼女たちとの約束」
祖母の話を聞いているうちに、空は完全に暗くなり、激しい雨が降り始めた。突然の夕立だった。
「時が来たわ」
祖母はそう言って立ち上がった。半身不随のはずなのに、驚くほどスムーズに。
「祖母さん?」
彼女は私を振り返り、悲しげに微笑んだ。
「実は、私も逃れられなかったの。この村を出ても、血の約束は続いていた」
祖母は雨の中、庭へと歩き出した。私は慌てて追いかけたが、足が動かなかった。まるで何かに捕らわれたように。
「祖母さん!戻って!」
叫んでも、祖母は振り返らなかった。彼女は青朝顔の蔓の下に立ち、空を見上げた。その瞬間、激しい雷光が走り、轟音と共に祖母の姿を包み込んだ。
閃光が消えた時、祖母の姿はなかった。代わりに、青朝顔の蔓が大きく揺れ、次々と花を開き始めた。深い藍色の花が、雨に打たれながら咲き誇る。
恐怖と混乱の中、私は気を失った。
目覚めたのは翌朝だった。縁側で横になっていた私を、村の人が見つけてくれたのだ。
「お祖母さんは?」
村人たちは顔を見合わせた。
「昨日の夕方、亡くなったって聞いたけど…遺体はどこ?」
私は言葉を失った。誰も祖母の姿を見ていないという。しかし村人たちは、不思議そうに青朝顔を見ていた。
「こんなに見事な青朝顔は初めて見たよ」
老人が呟いた。「まるで、雨乞いの時代のようだ」
その日、私は祖母の部屋を調べた。そこには古い日記が何冊も残されていた。一番古いものは、祖母の祖母の時代のものだった。
日記には、雨乞いの儀式の詳細と、「五十年に一度の約束」について書かれていた。旱魃に苦しんだ村は、雨を司る神と契約を交わした。五十年に一度、雨乞いの力を持つ女性を神の花嫁として捧げる代わりに、村は豊かな雨の恵みを受けるという契約だ。
そして、神の花嫁となった女性の魂は青朝顔となり、次の花嫁が選ばれるまで村を見守るのだという。
私は震える手で日記の最後のページを開いた。そこには祖母の筆跡で、こう書かれていた。
「私の番が来た。次は幸子。彼女が五十歳になる夏、青朝顔が咲く時」
恐怖に包まれた私は、すぐに村を出ようとした。しかし、車のエンジンはかからず、携帯電話も圏外だった。まるで、村全体が私を閉じ込めているかのようだ。
夕方、再び雷雲が近づいてきた。窓から見える青朝顔の花は、より鮮やかに咲いていた。よく見ると、それぞれの花の中心に、人の顔のような模様が浮かび上がっている。
その中の一つは、間違いなく祖母の顔だった。
雷鳴が轟く中、私は一つの決断をした。青朝顔の種を全て集め、この家を出ることにしたのだ。伝統を断ち切るために。
しかし、庭に出た瞬間、青朝顔の蔓が私の足に絡みついた。驚いて振りほどこうとするが、蔓は次々と体に巻きついてくる。
その時、祖母の声が聞こえた気がした。
「逃げられないのよ、幸子。でも、あと二十年はあるわ」
翌朝、村人たちは私を庭で発見した。意識はあったが、記憶があいまいだったという。私の腕には、青朝顔の蔓が絡まった跡が残っていた。
それから二十年。私は村を離れず、祖母の家に住み続けている。毎年夏になると、夕立の後に青朝顔の種を蒔く。そして花が咲く頃、庭に立ち、空を見上げる。
今年で私は五十歳になった。そして今日、空には黒い雲が垂れ込めている。
青朝顔の蔓は、もう屋根を越え、空へと伸びている。
***
九州南部の山間部に伝わる実際の民間伝承があります。特に宮崎県の一部地域では、「夕顔女」と呼ばれる不思議な習俗が記録されています。
2003年、宮崎県の某山村で行われた民俗学調査において、「青朝顔の儀式」と呼ばれる古い風習の痕跡が発見されました。地元の古老の証言によれば、特定の家系の女性は「雨の力」を持つとされ、旱魃の際には特別な儀式を行ったといいます。
興味深いことに、その家系の戸籍を調査したところ、約50年周期で女性が「行方不明」や「原因不明の死亡」として記録されています。