風鈴の音が聞こえる宿
八月の第一週、私は東北の山奥にある古い温泉旅館に一人で滞在していた。「緑風館」と呼ばれるその宿は、開湯四百年の歴史を持つ秘湯で、夏でも冷涼な気候が魅力だった。都会の喧騒から離れ、静かな時間を過ごすには最適な場所だと思った。
緑風館に到着したのは夕暮れ時だった。山あいの細い道を抜けると、苔むした石段の先に、風雪に耐えた三層構造の木造建築が姿を現した。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、六十代と思われる女将だった。彼女の説明によれば、この旅館は江戸時代から続く老舗で、今では彼女と息子夫婦だけで切り盛りしているという。
「お客様は今週、あなた一人だけですよ」
閑散期だと聞いていたが、まさか一人客とは思わなかった。少し不安になったが、それもまた非日常の醍醐味だと自分に言い聞かせた。
案内された部屋は二階の端にあり、窓からは渓谷と川のせせらぎが見えた。八畳ほどの和室は古色蒼然としていたが、清潔に保たれていた。部屋の隅には、青い硝子の風鈴が下がっていた。
「風があるとよく鳴るんですよ」
女将はそう言って、軽く風鈴を揺らした。透明感のある、澄んだ音色が室内に響いた。
「この風鈴は江戸時代からのもので、当館の宝なんです。お客様を守ってくれる霊力があるといわれています」
夕食は部屋食で、地元の山の幸が中心の質素ながらも心のこもった料理だった。食事を終え、女将に勧められるまま、露天風呂へと向かった。
旅館の裏手にある露天風呂は、自然の岩を活かした造りで、満天の星空が広がっていた。湯に浸かりながら星を眺めていると、どこからともなく風鈴の音が聞こえてきた。
「変だな」
私の部屋の風鈴のはずだが、ここまで音が届くとは思えない。不思議に思いながらも、温泉の心地よさに身を委ねていると、風鈴の音は次第に大きくなり、まるで耳元で鳴っているようだった。
そして突然、湯面に映る星空の中に、一つの人影が見えた。振り返ると、露天風呂の入口に白い浴衣を着た若い女性が立っていた。
「すみません」
慌てて体を隠そうとしたが、女性は私を見ていなかった。彼女はゆっくりと湯に足を入れ、そのまま湯船に浸かった。しかし不思議なことに、湯の表面は一切乱れなかった。
恐怖で声も出ず、ただ見つめていると、女性は悲しげな表情で私の方を向いた。
「助けてください…」
かすかな声が聞こえた気がした直後、女性の姿は霧のように消えた。同時に風鈴の音も止んだ。
震える足で部屋に戻ると、窓際に吊るされた風鈴が激しく揺れていた。窓は閉めたはずなのに。
翌朝、昨夜の出来事を女将に話すと、彼女は表情を曇らせた。
「お会いになったのですね、千代さんに」
女将の話によれば、千代は三十年前、この旅館に宿泊していた二十歳の女性だった。夜、一人で露天風呂に入っていた彼女は、何者かに襲われ、湯船で溺死したという。犯人は見つからず、事件は迷宮入りしたままだった。
「千代さんは時々、お客様の前に姿を現すのです。特に風鈴の音が聞こえる時は…」
女将は言葉を濁したが、続けた。
「実は千代さんが亡くなった日も、強い風が吹いて、風鈴が激しく鳴っていたそうです。それ以来、風鈴の音が異常に大きく聞こえる時は、何か起こる前触れだと…」
その日、私は旅館の周辺を散策することにした。緑豊かな山道を歩いていると、小さな祠を見つけた。中には古びた写真が祀られており、そこに写っていたのは間違いなく、昨夜見た女性だった。
祠の前で手を合わせていると、背後から声が聞こえた。
「千代のことを祈ってくれているのですか?」
振り返ると、初老の男性が立っていた。地元の住人らしく、山菜を採っていたようだった。
「あの子の死は、本当は事故じゃなかったんですよ」
男性は周囲を見回してから、声を潜めて話し始めた。
「あの夜、私は旅館の近くで山菜を採っていました。そして見てしまったのです。千代さんを湯船に沈めている人を」
血の気が引いた。
「それが誰だか、分かりますか?」
男性は首を振った。
「背中しか見えなかった。ただ、その人は風鈴を持っていました。千代さんの部屋の風鈴を」
旅館に戻ると、どこからともなく風鈴の音が聞こえ始めた。不思議なことに、誰にも聞こえないようで、女将もその息子も普段通りに振る舞っていた。
その夜、再び露天風呂に向かった。湯に浸かっていると、案の定、風鈴の音が近づいてきた。そして千代の姿が現れた。
「教えてください。誰があなたを殺したのですか?」
私の問いに、千代は湯船の方を指さした。湯面に映ったのは、旅館の裏手にある物置小屋だった。
翌朝、女将に断りを入れ、こっそりとその小屋を調べることにした。埃まみれの調度品や古い布団の山に、特に変わったものは見つからなかった。諦めかけたとき、奥の壁に小さな隙間を見つけた。
そこから取り出したのは、古い日記帳だった。表紙には「千代」と書かれていた。
日記の内容は、彼女が滞在中に知り合った旅館の若い番頭への恋心を綴ったものだった。しかし最後の方のページでは、その番頭が実は既婚者で、妻は現在の女将だと知り、深く傷ついている様子が記されていた。そして最後のページには、「今夜、すべてを清算する」と書かれていた。
日記を読み終えた瞬間、強い風が吹き、風鈴の音が耳をつんざいた。振り返ると、そこには女将が立っていた。
「見つけてしまったのですね」
彼女の目は冷たく、手には青い風鈴が握られていた。
「主人は弱い人でした。あの娘に誘惑されて…私は家族を守るためにやったのです」
恐怖で動けない私に、女将は近づいてきた。
「千代さんは三十年間、真実を明かそうとしている。だから私は風鈴で彼女を封じていたのです。でも、あなたが全てを台無しにした」
女将が風鈴を高く掲げた時、突然、部屋中の埃が舞い上がり、その中から千代の姿が現れた。
女将は悲鳴を上げ、後ずさった。千代は無言で女将に近づき、その腕に触れた。女将は恐怖に満ちた表情で床に崩れ落ちた。
その後、警察が呼ばれ、物置から千代の遺品と共に、彼女の髪の毛が付着した風鈴が見つかった。DNA検査により、女将の犯行が裏付けられた。三十年前の殺人事件は、ようやく解決した。
女将が逮捕された後、旅館は閉鎖された。最後に私が緑風館を去る日、千代の祠に別れの挨拶をしに行くと、そこには一つの青い風鈴が下がっていた。風もないのに、それは静かに美しい音色を奏でていた。
***
東北地方の温泉地に伝わる実際の出来事があります。特に宮城県の某温泉街では、1985年に実際に起きた女性宿泊客殺害事件が長らく未解決となっていました。
2015年、この事件は驚くべき形で解決しました。事件から30年後、その温泉旅館を訪れた宿泊客が「風鈴の音に導かれて」物的証拠を発見したのです。その客の証言によれば、滞在中ずっと風鈴の音が聞こえ続け、誰にも聞こえないその音に導かれて旅館の物置を調べたところ、被害者の遺品が見つかったといいます。
地元では古くから「風鈴の音は死者の声」という言い伝えがあり、特に不自然な死を遂げた人の魂は、風鈴の音で生者に語りかけるとされています。東北の多くの温泉旅館では今でも、客室に風鈴を吊るす習慣があり、それは「魂の声を聞くための媒介」とも言われています。
科学的に説明できない現象ですが、この事件をきっかけに、日本全国の温泉旅館で「風鈴の音が異常に聞こえる部屋」の報告が増加しています。特に夏の時期、風のない日に風鈴が鳴る現象は、旅館関係者の間では「千代現象」と呼ばれ、何かの前兆として警戒されているのです。
温泉に浸かりながら聞こえる風鈴の音。それは涼を呼ぶ夏の風物詩であると同時に、時に亡くなった人からのメッセージかもしれません。次に温泉旅館で風鈴の音が聞こえたら、それは単なる風の仕業なのか、それとも誰かからの呼びかけなのか、耳を澄ませてみてはいかがでしょうか。