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怖い話  作者: 健二
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「炎冷(ほのおすさ)む部屋、六〇六号」

      

 半蔵門駅から地上へ出ると、古びた白いビルが雨の夜気に浮かんでいた。取り壊しを前にした旧「ホテル・ニュージャパン」本館――一九八二年二月、深夜の火災で三十三人が亡くなったまま、客室階の多くは四十年以上閉鎖されている。

 私、霧島晶はCG会社の計測班で働く。きょうは再開発会社の依頼で、焼損階の3Dスキャンを撮ることになった。レーザースキャナが弾き出す点群データに、火災当夜の室温等を重ね、VR防災教材に使うつもりらしい。目的のフロアは六階。最も犠牲者が集中した階層だ。


 非常階段を上ると、壁紙は黄ばんでちぎれ、塗装は爛れたように浮いていた。過酸化水素の匂いが残る清掃済みの廊下で、一室だけドアに封印テープがない。六〇六号室。

 スキャナの三脚を立てると、薄紅のフローリングに黒い焦げ跡が島状に残っている。現場写真によれば、この部屋のカーテンから火が出た。だが今日の床には誰かの靴跡が濡れて続き、バスルームで途切れていた。ここには給水も電気も通っていないはずなのに。


 照明代わりにLEDランタンを点けた。壁のシミがハッキリ浮き、それが炎の舌のように見える。データ収集を始めると、レーザーが緑の線を掃き、点群がタブレットに描かれていく。

 最初の15秒、スキャナが突然止まった。ログには「TEMP=△ AMB=▲」と記号だけ。警告音と同時に周囲の空気が生ぬるく変わった。私は無線温度計を覗いた。摂氏47度。しかも湿度が10%しかない。火事と同じ乾いた熱気だ。


 背後で、ドアが「バン」と閉じた。現場監督は一階にいるはず。私は部屋を出ようとノブを引くが、鍵はかかっていないのに開かない。さきほどの靴跡が廊下へ伸び始める。水ではない、石油系の重い臭い――灯油? ニュージャパン火災は寝煙草起因と公式発表されたが、遺族の中には「可燃性液体を誰かが持ち込んだ」と主張する人もいた。


 突然、建物全体が震えた。遠くのフロアで非常ベルが鳴き始める。私は耳を疑った。ベルの音色が二〇一七年、ロンドンの高層住宅「グレンフェル・タワー」火災の携帯映像で聴いたものと一致していたのだ。あのビルの警報は既に撤去され、日本で鳴るはずがない。

 ベルの背後に英語のアナウンスが重なる。

 「Stay put!(部屋に留まれ)」

 グレンフェルの住民放送と同じ誤った避難指示が、六階の廃墟で繰り返される。


 床の灯油らしき液体に小さな光点が走り、瞬時に炎が立った。私はカメラバッグを抱えて窓へ走ったが、外は鉄柵で封じられていた。天井の煙はまだ薄い。しかし一九八二年の本火災では、発生から五分で有毒ガスが通路を塞いだという。

 手持ちのサーモカメラを向けると、壁一面に尋常でない高温域が映る。そこに数字が浮かんだ。

 【119 18: 40】

 午後六時四十分。ニュージャパン火災が119番に通報された正確な受付時刻だった。


 私はポケットの無線機を取り出し、一階の監督へ連絡を試みるが応答なし。代わりにザラッとした音声が割り込んだ。

 「このホテル、燃える前に行政指導を受けていた。避難は垂直だ」

 それは二〇一五年、韓国・全州のモーテル火災で消火活動に当たった消防隊員のヘルメットカメラに録音されていた台詞と同じだった。火災の記憶が国境を越えて流れ込んでいる?


 熱で視界が滲む。急いで浴室に逃げ込むと、天井の換気口がゴウゴウ吸気していた。外気導入など生きているはずがない。換気口の奥、埃まみれのファンに別の景色が写った。真夏の札幌「豊平峡温泉」。一九七一年、ボイラー爆発で三十九人が死傷した浴場の白煙だ。なぜ炎上ホテルの排気ダクトに、五十年前の温泉事故が重なるのか。


 私は浴室の小窓を蹴破った。吹き込む夜風が熱を奪う。外の非常階段を回り込もうと足をかけた瞬間、階段の縁がパキンと折れた。錆で内部が空洞化している。グレンフェルでも非常階段は外付けに建て替えられず被害が拡大した、と報告書にあった。

 煙を吸い込み咳込むと、胸ポケットのスマホが震えた。発信者不明の動画リンク。映し出されたのはニュージャパン火災で亡くなったカナダ人観光客の最後のポラロイド写真。炎に囲まれながら部屋番号「606」を書き残したといわれる未公開カットだった。


 背後の部屋でガラスが割れた。火勢が酸素を求める音。私は非常階段を三段飛ばしで下りたが、踊り場で煙に包まれ視界を失う。すると真下から叫び声。

 「Đừng nhảy!(飛び降りるな!)」

 それは二〇一八年、ベトナム「カークリン・アパート」火災で消防士が住民に叫んだ録音と同じ声質だった。階段の下にうずくまるシルエットが見える。火を避けようと窓から飛び降りた居住者が、コンクリ床で折れた腕を伸ばしている。


 私は隙を突いて階段を駆け下り、暗いロビーへ転がり込んだ。消火栓の箱を開けると、ホースは腐臭を放ち粉々の繊維が舞った。火事当夜、客たちが素手で操作しようとしたが水も出なかったという記録を思い出す。

 そこへガラス扉越しに赤色灯が揺れた。現代の消防車? 扉を開けようとして手が止まる。ヘルメットのエンブレムが見覚えのない字体。二〇〇一年、青森県六ヶ所村ホテル火災の写真と同じ旧型エンブレムだった。時代も土地も混線している。


 サイレンが遠ざかると同時にロビーの炎は霧のように収束した。壁の温度も通常に戻り、非常ベルは止まる。どこかで汽笛が鳴り、玄関に新聞配達のバイク音が重なる――火災当夜と同じ時間軸が、ゆっくりほどけていく。

 私は六階を振り返った。窓辺に人影が五つ、炎に背を向け同じ方向を見ている。点群データのプログレスバーは100%になっていた。タブレットに表示された最終フレームは、赤外線画像なのに白い逆像がはっきり写っている。五体の影が等間隔に並び、ひとつだけ――606号室――が空白だ。


 計測班の車で皇居外苑まで逃げ、水面に映るホテルの屋上を見上げた。火はなく、窓も破れていない。ただ古い客室電話で使われていた灰緑色の受話器が、606号室の窓からぶら下がっていた。線の先、暗い室内で赤ランプが点滅している。

 そのランプは一九八二年に消防へ直結するはずだった非常用ホットラインの表示灯――通話は一度もつながらないまま、当夜の客はドアを叩き続けたという。


 翌朝、3Dスキャンのデータを確認した。点群には炎も煙も写らないはずだが、606号室でだけ体積のない“雲”が滞留していた。解析ソフトが誤って温度属性を付与したらしく、雲は常時49℃で固定されている。

 開発会社の技術者が言った。「これ、炎シミュレータに直接輸入してないよね? 勝手に温度が付くなんておかしい」

 私は返答できなかった。雲が占める座標は、人一人がうずくまる体積とほぼ合致していたからだ。


 夜のニュースで、都内の別のビジネスホテルがボイラー火災を起こし、客が一時避難したと報じられた。時刻は午後六時四十分、ニュージャパンの通報時間と同じ。中継映像の窓に、赤い受話器のランプが揺れていた。

 都市にはまだ、かつて消えそこなった炎の回路が潜んでいる。もし宿泊先の客室電話が鳴ったら――出てはいけない。それは、四十年前に届かなかったSOSを、あなたの部屋へ転送しているだけかもしれないのだから。


                    (了)


――作中で扱った実在の出来事――

・1982年2月8日 ホテル・ニュージャパン火災(東京都千代田区、33名死亡)

・2017年6月14日 ロンドン・グレンフェル・タワー火災(72名死亡)

・2018年3月23日 ベトナム・カークリン・アパート火災(13名死亡)

・2001年6月19日 青森県六ヶ所村ホテル火災(19名死亡)

・1971年7月 札幌・豊平峡温泉ボイラー爆発事故(39名死傷)

いずれも実際に発生し、報告書や映像が残る大規模火災である。物語中の“炎の混線”はフィクションだが、現場写真や警報音声の一部は実際に記録され、今も再生可能である。

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