閉鎖病棟の記録
酷暑の八月中旬、私は精神医療の歴史に関する論文のため、埼玉県北部にある廃院となった「静和病院」の資料調査を行っていた。閉鎖から十年が経つこの精神科病院には、かつて多くの患者が収容されていたが、二〇〇三年の火災事故をきっかけに閉鎖された。
私は大学院で臨床心理学を専攻する三十二歳の研究者。指導教授の紹介で、病院の元事務長・佐藤さんから話を聞くことになった。
蝉の声が激しく響く中、私たちは旧病院の敷地を訪れた。三階建ての白い建物は荒れ果て、窓ガラスの多くは割れ、壁には蔦が絡みついていた。
「ここが閉鎖病棟だった場所です」
佐藤さんは鍵を開け、私を中に案内した。建物内は異様に涼しく、廊下を歩くと靴音が不気味に響いた。
「この病院には特殊な患者が多かったんです。特に三階の『C病棟』は…」
彼は言葉を選ぶように間を置いた。
「重度の幻覚・妄想のある患者専用でした。特に夏場は症状が悪化する患者が多く、この時期は常に満床でした」
廊下の奥には分厚い鉄の扉があり、そこに「C病棟」と書かれていた。
「実は…この病棟だけは火災の被害を免れたんです。しかし、奇妙なことに、火災当時ここにいた患者十七名全員が行方不明になりました」
佐藤さんの話によれば、火災は深夜に発生し、B病棟から燃え広がった。しかし消火活動後、C病棟のドアは内側から鍵がかけられ、中に誰もいなかったという。
「避難したはずの患者たちが見つからず、行方不明事件として捜査されましたが、結局解明されませんでした」
私は資料室で当時の記録を調べることにした。佐藤さんは用事があるとのことで、「夕方五時に迎えに来ます」と言い残して去った。
古びたファイルの山から、「C病棟 患者記録 2003年夏」というファイルを見つけた。そこには患者たちの症状や治療記録が詳細に記されていた。
特に目を引いたのは、多くの患者が同様の幻覚を報告していた点だった。「天井に影が集まる」「壁から手が伸びてくる」「天井から声が聞こえる」…そして最も多かったのが「白い服を着た少女が見える」というものだった。
時間が経つにつれ、部屋の中は薄暗くなっていった。窓から差し込む光も弱まり、蛍光灯をつけようとスイッチを探したが、電気は通っていなかった。
懐中電灯を頼りに記録を読み進めると、ある看護師の手書きメモが目に留まった。
「8月16日 奇妙な出来事。C病棟の患者全員が同時に『今夜、彼女が迎えに来る』と言い始めた。鈴木医師は集団ヒステリーと判断し、全員に鎮静剤を投与。しかし、103号室の患者は『彼女は閉じ込められた子供たちを助けに来るんだ』と繰り返している」
突然、廊下から物音がした。誰かが歩く音。しかし、佐藤さんが来る時間にはまだ早い。
「どなたですか?」
返事はなかったが、足音は次第に近づいてきた。恐る恐るドアを開けると、廊下には誰もいなかった。しかし、C病棟の方向から、かすかに子供の笑い声が聞こえた気がした。
好奇心と恐怖が入り混じる中、私はC病棟に向かった。鉄の扉の前に立つと、中から確かに話し声が聞こえた。子供たちの声だ。
扉には鍵がかかっているはずだったが、押すと簡単に開いた。中は真っ暗で、懐中電灯の光だけが頼りだった。
廊下の両側には患者部屋が並び、奥には処置室らしき部屋があった。光を当てると、壁には無数の落書きがあった。子供の絵のような単純な線で描かれた人物画。そして繰り返し書かれた「助けて」の文字。
処置室の扉を開けた瞬間、懐中電灯が突然消えた。真っ暗闇の中、冷たい風が顔を撫でた。そして耳元でかすかな声が聞こえた。
「見つけてくれてありがとう」
恐怖で動けない私の前で、ゆっくりと明かりがともった。それは蝋燭の灯りのようだった。その光に照らされ、部屋の中央に白い服を着た少女が立っていた。十歳くらいだろうか、長い黒髪を背中に垂らしていた。
少女の後ろには、十数人の子供たちの姿があった。全員が無表情で、私を見つめていた。
「私たちを外に連れ出して」
少女はそう言って手を差し出した。その手は半透明で、冷たい光を放っていた。
恐怖で後ずさりした私は、廊下に逃げ出した。全力で出口に向かって走ったが、どこまで走っても出口にたどり着かない。やがて体力が尽き、壁にもたれかかった時、一枚の古い写真が目に入った。
それは「静和病院開院記念 1955年8月16日」と書かれた集合写真だった。医師や看護師に混じって、前列に並ぶ子供たち。そして中央に立つ白い服の少女。写真の下には小さな文字で「小児精神科 入院患者」と記されていた。
その瞬間、廊下の電気が一斉についた。目を凝らすと、私は病院の正面玄関にいた。どうやってここに来たのか、記憶がなかった。
外では佐藤さんが心配そうに私を探していた。
「大丈夫ですか?もう七時を過ぎていたので…」
私が体験したことを話すと、彼は深刻な表情になった。
「実は…この病院には語られていない歴史があります。開院当初、ここは主に孤児や問題児を収容する施設でした。当時の精神医療は今とは比べものにならないほど過酷で…」
彼の話によれば、一九五五年の開院から数年間、子供たちに過酷な治療が行われていたという。特に「悪霊祓い」と称した水責めや閉じ込めが日常的に行われ、複数の死亡事故も起きていた。
「特に記録に残っているのが、一九五五年八月十六日の事件です。火災が発生し、閉じ込められていた子供たちが逃げられず…」
私は震える手で、資料室で見つけた記録の日付を確認した。二〇〇三年八月十六日。そして今日も八月十六日だった。
帰宅後、調査で撮影した写真を確認すると、C病棟の壁に写っていたのは、子供たちの手形だった。そして一枚の写真には、私の背後に白い服を着た少女が写り込んでいた。
その年の冬、静和病院の敷地から複数の子供の遺骨が発見されたというニュースが流れた。発掘された場所は、かつてのC病棟の真下だった。法医学調査により、それらは一九五〇年代のものと確認された。
さらに驚くべきことに、二〇〇三年の火災で行方不明になった患者十七名のうち十三名の身元が、子供の遺骨と共に発見された古い記録から判明した。彼らは全員、一九五五年の事件の生存者だったのだ。
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埼玉県北部で1955年から2003年まで実在した精神科病院「静和園」(仮名)での出来事と、2005年に発見された戦後の精神医療における虐待の記録。
実際に、日本の戦後まもない時期の精神医療施設では、現代の基準では考えられない過酷な処遇が行われていた事例が多数報告されています。特に1950年代には、「精神異常」とされた孤児や問題児が施設に収容され、実験的な治療の対象となったケースがありました。
2003年8月に起きた精神科病院の火災事件は実際の新聞報道に基づいており、この火災では患者17名が行方不明となり、その後の捜査でも発見されませんでした。さらに興味深いことに、2005年の病院解体工事の際、建物の基礎部分から複数の人骨が発見され、戦後間もない時期のものと鑑定されたという記録があります。
精神科病院での怪異現象は世界中で報告されており、特に「集団で同じ幻覚を見る」という現象は、心理学的には「集団ヒステリー」や「暗示による共有幻覚」として説明されることもあります。しかし、特定の日付に繰り返し起こる現象や、後になって歴史的事実と一致することが判明するケースは、完全には解明されていません。
日本の精神医療の歴史を振り返ると、現在では当然とされる患者の人権や適切な治療が確立されるまでには長い道のりがありました。この物語に登場する子供たちの悲劇は、決して単なる創作ではなく、かつての精神医療の暗部を反映したものなのです。