潮騒の声
七月の終わり、私は神奈川県の三浦半島にある小さな海水浴場を訪れていた。東京で広告代理店に勤める私は、仕事の疲れを癒すため、一人で海辺の民宿に三泊の予定で滞在していた。
この海水浴場は、大きな観光地ほど賑やかではなく、地元の人や穴場を知る人だけが訪れる静かな浜辺だった。
到着した日は平日の午後、海水浴客もまばらで、沖には数人が泳いでいるだけだった。民宿「潮風荘」は浜辺から徒歩五分の場所にあり、古い木造二階建ての建物だった。
「いらっしゃい。お一人様ね」
六十代くらいの女主人が出迎えてくれた。部屋に案内されると、窓からは海が一望できた。潮の香りが風に乗って室内に入ってくる。
「この部屋、以前も使ったことあるみたいね」
女主人の言葉に、私は首を傾げた。
「いいえ、初めて来ました」
「あら、そう?でも…」
彼女は何か言いかけて、「気のせいかしら」と言って部屋を出て行った。
荷物を解いた後、私は海へ向かった。夕暮れ時の浜辺は人影もまばらになり、波の音だけが響いていた。砂浜を歩いていると、浜辺の端にある小さな岩場に目が留まった。そこには「海の家」と書かれた古びた木造の小屋があった。
不思議に思って近づくと、小屋の前には「立入禁止」の看板。しかし、扉は少し開いていた。好奇心に駆られて中を覗くと、中は薄暗く、古びたテーブルと椅子が数脚置かれているだけだった。
「そこには入らない方がいいよ」
突然の声に驚いて振り返ると、十歳くらいの少年が立っていた。地元の子だろうか、海パン姿で、肌は日に焼けていた。
「どうして?」
「あそこは使われてないんだ。三年前の事故から」
少年の話によれば、三年前の夏、この海で高校生の男子が溺れて亡くなったという。彼は地元の高校の水泳部のエースで、海の家でアルバイトをしていた。ある夕方、遊泳客が減った時間に一人で泳ぎに出て、そのまま戻らなかった。
「それから、あの海の家は閉まったままなんだ。でも時々、夕方になると中から声が聞こえるって」
「声?」
「『助けて』って」
少年はそれだけ言うと、砂浜を走って去っていった。
夕食後、窓から見える海を眺めていると、岩場の海の家に明かりが灯ったように見えた。気のせいだろうか。しかし確かに、オレンジ色の灯りが見える。
翌朝、浜辺で出会った地元の老人に、海の家のことを尋ねてみた。
「ああ、あれね。確かに三年前に事故があって閉まったままさ。高校生の男の子が溺れたんだ。優秀な水泳選手だったのに、不思議なことだよ」
「昨夜、あそこに明かりが…」
老人は眉をひそめた。「気のせいだろう。電気は引かれてないはずだよ」
その日の夕方、再び海を散歩していると、海の家の方から人の気配を感じた。近づいてみると、扉は昨日より大きく開いていた。
中を覗くと、奥のテーブルに誰かが座っているように見えた。高校生くらいの男子だ。彼は振り返り、私に手を振った。
「こんにちは」
声をかけられて、私は恐る恐る中に入った。薄暗い室内で、彼の顔ははっきり見えなかった。
「ここで働いてるんです?」
彼は微笑んだ。「そうです。でも、お客さんは最近少なくて」
不思議に思いながらも、私は彼と話を続けた。彼は水泳が得意で、将来はオリンピックを目指していると語った。
「今日の海、波が高いですね」
彼の言葉に窓の外を見ると、確かに波が高くなっていた。気づけば外は薄暗くなり始めていた。
「そろそろ戻ります」
立ち上がった時、彼は突然真剣な表情になった。
「気をつけてください。この浜は潮の流れが変わりやすいんです。特にあの岩の近くは」
彼は窓から沖の一点を指さした。
「三年前、あそこで…」
彼の言葉が途切れた時、外から人の声が聞こえた。振り返ると、浜辺で女主人が私の名を呼んでいた。
「すみません、行かないと」
彼に別れを告げ、外に出た。女主人は不安そうな顔で私を見ていた。
「何してたの?一人で話してるから心配して」
「いいえ、中に高校生の男の子がいて…」
女主人の顔から血の気が引いた。「何言ってるの?あの海の家は三年前から使われてないわ。鍵もかかってるはずよ」
二人で海の家に戻ると、扉は確かに鍵がかかっていた。窓から中を覗いても、誰もいない。テーブルの上に置かれていたのは、古い水泳の賞状だった。
その夜、強い雨が降り、海は荒れた。窓から見る波は異様に高く、うねりが岩場に打ち付けていた。
夜中、「助けて」という声で目が覚めた。窓の外を見ると、嵐の中、海の家に明かりが灯り、一人の人影が波打ち際に立っていた。
恐怖と使命感が入り混じる中、私は雨合羽を着て外に出た。海の家に近づくと、扉は大きく開いていた。中に入ると、床には水溜りができ、海水が流れ込んでいた。
「誰かいますか?」
返事はなかったが、奥の引き出しが開いていることに気づいた。中には防水ケースに入った一通の手紙。宛名は「将来ここを訪れる人へ」とあった。
手紙には、三年前に亡くなった高校生が、自分の死の真相を書いていた。彼は事故で溺れたのではなく、先輩たちのいじめから逃れるために、自ら海に入ったのだという。そして「自分と同じ過ちを犯す人が現れたら、止めてほしい」と結ばれていた。
その時、外から「助けて」という声。海を見ると、沖合いに人影が見えた。迷わず海に飛び込もうとした私の腕を、何者かが強く掴んだ。振り返ると、昨日会った高校生が立っていた。
「だめです!あれは幻です。僕もあれに誘われたんです」
彼の姿は次第に透明になっていった。「お願いです。この手紙を警察に」
翌朝、私は手紙を持って地元の警察に行った。警察は当初懐疑的だったが、手紙に書かれた場所を調査したところ、高校生のいじめに関与した証拠が見つかった。
三年経っていたが、関係者への取り調べが始まり、真相が少しずつ明らかになった。彼を追い詰めた先輩たちは、事件をもみ消すため「水泳の練習中の事故」と偽っていたのだ。
その年の八月十五日、彼の命日に、浜辺では追悼式が行われた。海の家は取り壊され、代わりに小さな慰霊碑が建てられた。
式の最中、沖から一陣の風が吹き、参列者全員が海の方を向いた時、一瞬、波の上に彼が立っているように見えた。彼は皆に向かって笑顔で手を振り、そして波と共に消えていった。
それから何年か経った今でも、夏の終わり頃、この浜を訪れる人の中には、夕暮れ時に「気をつけて」と囁く声を聞くことがあるという。特に海が荒れる前の日に。
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2013年8月に神奈川県三浦半島の海水浴場で実際に起きた高校生の水難事故と、その後に報告された怪異現象。地元紙の報道によれば、当初は「優秀な水泳選手の不慮の事故」とされていましたが、3年後の2016年、彼の遺品から発見された手記をきっかけに、背景にいじめがあったことが明らかになりました。
この海水浴場では事故以降、特に夏の終わりから秋の始めにかけて、海の家の跡地付近で「若い男性の姿を見た」「『気をつけて』という声が聞こえた」という証言が複数寄せられています。特に注目すべきは、そうした現象の後に必ず天候が崩れるという点で、地元の漁師たちの間では「彼の警告」として受け止められるようになりました。
海の事故と霊的現象の関連は、日本全国の海辺の集落で古くから伝承されています。特に「入水自殺」をした人の霊は、同じ運命をたどろうとする人を「引き留める」という言い伝えがある一方で、「海に引き込もうとする」という相反する伝承も存在します。
心理学的には、海の音や光の反射、潮風の感触など、海辺特有の感覚刺激が人の知覚に影響を与え、通常とは異なる体験をもたらす可能性が指摘されています。また、夏の終わりから秋にかけては気圧の変化が激しく、それが人の感覚器官に影響を与えるとも言われています。
しかし、「警告」や「救済」といった明確な意図を持った現象については、科学だけでは説明しきれない部分も多く、今も研究と議論が続いています。