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怖い話  作者: 健二
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蝉しぐれの谷


蝉の鳴き声が耳をつんざく八月の終わり。私は祖父の葬儀のため、三重県の山間にある小さな集落に戻っていた。東京での仕事を休み、十年ぶりに帰郷した私を迎えたのは、いつもより激しく鳴き響く蝉の声だった。


祖父の家は集落の外れ、「蝉ヶ谷」と呼ばれる山あいにあった。地元の言い伝えでは、この谷は「蝉が集まる場所」とされ、夏になると異様なほどの蝉が集まるという。


「昔は怖かったね、あんなに蝉が鳴くと」


葬儀の後、幼なじみの健太が言った。「覚えてる?あの『蝉の女』の話」


私は懐かしさと共に、かつて村の子供たちの間で語り継がれた恐ろしい話を思い出した。蝉の女——夏の終わりに現れる、蝉の羽を持った女の幽霊。彼女に出会うと、その年の冬までに命を落とすという。


「迷信だよ」


そう笑い飛ばしたものの、どこか心に引っかかるものがあった。


三日間の法要を終え、祖父の遺品整理を始めた。古い蔵から出てきた箱の中には、黄ばんだ写真や手紙が詰まっていた。一枚の白黒写真に目が止まった。そこには若い頃の祖父と、見知らぬ女性が写っていた。


「婆ちゃん?」


しかし、祖母とは明らかに違う。写真の裏には「昭和二十二年 八月 蝉子と」と記されていた。


その夜、叔父に写真の女性について尋ねると、彼は顔色を変えた。


「その写真、どこで?」


「蔵の箱から出てきたんだけど」


叔父は深いため息をついた。


「蝉子さんは、おじいさんの最初の婚約者だったんだよ。戦後すぐの夏、彼女は突然姿を消した。その後、おじいさんはおばあさんと結婚した。蝉子さんの話は、この家ではタブーだったんだ」


その夜、激しい雷雨があった。目が覚めると、窓の外から聞こえる蝉の声が、昼間より大きく感じられた。真夜中に蝉が鳴くなんておかしい。時計を見ると午前三時を指していた。


窓から外を見ると、庭の隅に白い着物を着た女性が立っていた。雨の中、彼女の背中には何か透明な羽のようなものが見えた。恐怖で身がすくむ中、女性はゆっくりと振り返った。顔は見えなかったが、黒い長い髪が風もないのに揺れていた。


「誰だ!」


声をかけると、女性は急に動きを止めた。そして一瞬で視界から消えた。その直後、家中の蝉時計が一斉に鳴り始めた。


翌朝、叔父に昨夜のことを話すと、彼は顔色を失った。


「今日から、家の中にいなさい。特に日没後は外に出るな」


彼の話によると、蝉子さんの失踪後、この地域では「蝉の女」の噂が広まったという。夏の終わりに現れる女性の姿を見た人が、次々と謎の死を遂げたのだ。


「おじいさんは最後まで信じなかったけど、あの時、蝉ヶ谷で何かが起きたんだ」


その日の午後、私は蝉ヶ谷に向かった。集落の外れにある小さな谷は、異様なほど蝉の声で満ちていた。谷の奥には、古い石碑があった。近づくと、そこには「蝉女大明神」と刻まれていた。


地元の古老によれば、江戸時代からこの地には「蝉女」の伝説があったという。大量の蝉に囲まれて死んだ女性の祟りを鎮めるため、この石碑が建てられたのだ。


「昭和二十二年の夏も、異常なほど蝉が多かった。そして蝉子さんが消えた」


古老は続けた。「あの年、村では七人が謎の死を遂げた。皆、蝉の女を見たと言っていた。おじいさんは生き残った数少ない一人だ」


その夜、再び雷雨が襲った。就寝前、窓の外を見ると、白い着物の女性が庭に立っていた。今度ははっきりと顔が見えた。写真の蝉子さんだった。彼女の背中には透明な蝉の羽があり、その周りには無数の蝉が飛び交っていた。


女性は家の方を見て、かすかに微笑んだ。


「お待ちしていました」


声は頭の中に直接響いた。


恐怖で体が動かない中、女性は家に近づいてきた。しかし玄関に到達する前に、突然立ち止まった。


「あなたは違う...」


彼女は混乱したように頭を振った。「あの方はどこ?」


「祖父なら、もういないんです」


女性の表情が一瞬歪んだ。そして突然、彼女の体から無数の蝉が飛び立った。耳をつんざく蝉の声と共に、女性の姿は蝉の群れに溶けていった。


翌朝、庭には大量の蝉の抜け殻が落ちていた。そして石碑の前に供えられていた古い位牌が消えていた。叔父によれば、それは祖父が長年隠していた蝉子さんの位牌だという。


帰京の日、バスの窓から最後に蝉ヶ谷を見ると、谷全体が静まり返っていた。蝉の声が嘘のように消えていたのだ。


一ヶ月後、祖父の遺品の中から一通の手紙が見つかった。昭和二十二年に書かれたそれは、蝉子から祖父への最後の手紙だった。


「私は行かなければなりません。蝉の女が私を呼んでいます。あなたにだけは会わせたくない。だから、忘れてください」


その年の冬、集落の古老が亡くなった。死因は不明だったが、彼の部屋からは大量の蝉の抜け殻が見つかったという。


---


三重県の山間部で古くから伝わる「蝉女」の伝承と、1947年(昭和22年)に実際に報告された「異常な蝉の大発生と失踪事件」。東紀州地方には「蝉に姿を変えた女性の霊」の伝説が江戸時代から伝わっており、特定の谷では夏の終わりに異常な量の蝉が鳴くとされています。


1947年の夏、終戦直後の混乱期に、この地域で実際に若い女性が失踪し、同時期に複数の謎の死亡事故が報告されました。当時の地方新聞には「蝉の異常発生と不可解な死」という記事が掲載され、地元では「蝉の女の祟り」として恐れられました。


蝉と霊的現象を結びつける伝承は日本各地に存在します。蝉は地中で長い年月を過ごした後に地上に出てくることから、「死者の魂の象徴」とされることもあります。特に「ひぐらし」と呼ばれる蝉は、その鳴き声が「日暮れ」を連想させることから、現世と異界の境界に関わる生き物として伝承されてきました。


現代の昆虫学では、異常気象や環境変化によって特定の年に蝉が大量発生する現象は科学的に説明されていますが、それが特定の死亡事件や失踪と重なる場合、地域に根差した伝承が再び語られることがあります。夏の終わりに聞こえる蝉の声が、通常より大きく感じられることがあるのは、気温や湿度の変化で音の伝わり方が変わるためですが、それを「別の世界からの声」と感じた人々の体験談は、今も各地から報告されています。

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