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怖い話  作者: 健二
★★★
15/44

「七時十八分のリマインダー」


 会社員になって十年、私はほとんど毎朝、JR福知山線の快速に乗る。尼崎発七時十八分、大阪行き。停車駅は少なく、車内は空調も静かで、リモートワークが定着した今でも座れることが多い。なにより家から職場まで最短ルートだ。

 ――その線路で二〇〇五年四月二十五日、百七名が亡くなった脱線事故が起きた。けれど十九年も経つと、駅の壁に貼られた慰霊ポスターにも目が慣れ、私を含む大多数の通勤客はスマホを覗いたままホームを歩いている。


 四月二十四日、つまり事故の前日の日曜。私は部屋の掃除をして、机の奥から古いiPod用の有線イヤホンを見つけた。どうせ使わないのに捨てられずにいた物だ。プラグをスマホに挿した瞬間、画面が真っ黒になり、緊急警報のアラートが鳴った。

 「訓練用Jアラート――これは訓練です」

 去年、誤配信で話題になった総務省のテスト放送がまた来たのかと思い、電源ボタンを長押ししたが反応しない。次の瞬間、画面に白い文字が浮かんだ。


  2005/04/25 07:18 座席番号 5-15


 日付も時刻も未来でも過去でもない。なのに「事故の朝と同じ時間」だということだけが頭に刺さった。慌ててイヤホンを抜くとスマホは元通り。

 じっとしていても気味が悪いので、私はそのまま翌日の出勤支度を整え、いつもより早く寝た。


     ※


 四月二十五日、月曜。七時十二分発の普通電車が人身事故で運休になり、ホームはいつもより混んでいた。私は続行の快速に駆け込み、偶然空いていた五号車のドア脇シートに腰を下ろす。

 網棚に手荷物を置きながら、スマホの「今日の予定」に目をやった。昨夜は確かに同期していないはずなのに、通知が一件追加されている。


  07:18 REMINDER 『曲線制限70km/h』


 七時十八分。ちょうどこの電車が例のカーブに差しかかる時刻だ。福知山線事故の原因はカーブ手前で速度を落とさず突入したことだと、報道で何度も耳にした。善意の誰かが追悼目的で悪質なスケジュール共有をばらまいたのだろうか――そう考えて削除しようとしたが、指が止まる。

 イヤホンを挿すと何が起きるだろう。ほんの好奇心で、昨日の古いイヤホンをポケットから取り出してみた。そのとたん、「ブツッ」と線が切れるようなノイズが耳の奥に刺さった。


 車内モニタが故障したようにフリーズし、次の駅名表示が消える。つづいて天井スピーカーがかすれた声を流した。


 「……ATS切り、加速します」


 現実の車掌がそんな言葉を流すはずがない。乗客の誰も気づかない様子でスマホと睨めっこしている。私はイヤホンを外しかけたが、外せば何も聞こえなくなる気がして、逆にボリュームを上げた。

 風を切る音が膨らむ。速度計でもあるかのようにノイズが「百、百十、百十五……」と数字を吐き、やがてカーブの遠心力と同時に絶叫が重なった。


 「減速! 減速っ……!」


 私は反射的に立ち上がった。視界は揺れていない。電車は正常に走っている。だが息がつまる。指先が汗で滑った。イヤホンを投げ出し、連結通路の窓をのぞくと、次の瞬間、目の前の景色が一瞬だけ「別の線路」に切り替わった。積み上がった車体、ねじれたレール、割れた窓ガラス。たった一コマの静止画のようにフラッシュし、すぐに普通の住宅街の外壁へ戻る。


 車内放送がチャイムとともに復帰した。

 「まもなく塚口、塚口です」

 時計は七時二十分。私は座席へ戻り、息を整えながら、もう一度スマホのカレンダーを開いた。さっきのリマインダーは消えている。代わりに未読メールが一通増え、送り主は空欄、件名もなし。本文は一行だった。


  残席:106


 死亡者は107。私の座席を差し引けば数字は合う。そう思った瞬間、足首が熱く痺れ、肌に何かが巻きついた感覚が走った。見下ろすと床はいつものリノリウムなのに、影だけがねじれている。

 乗客が降りるため立ち上がり、私も降りようとした。そのとき列の誰かがイヤホンのコードを踏んだ。落ちたイヤホンから一瞬だけ音が漏れた。


 「ありがとう……さようなら……」


 福知山線事故のCVDR(運転席ボイスレコーダー)には、そんな肉声は残っていない。だが日航機墜落時の最後の交信として有名なあの言葉が、なぜかホームに響いた。振り返っても、誰も気づいていない。

 列車は扉を閉め、走り出した。イヤホンは私の足元に残され、線の途中が鋭く裂けていた。まるで最初からそこが切断点だったかのように、銅線は緑青を帯びている。


     ※


 職場のパソコンを起動すると、セキュリティソフトが「新しいハードウェアを検出しました」と通知を出した。オーディオデバイスの欄に、『SONY MDR-EX51(2004)』の文字。

 ――あの片耳しか残っていないイヤホンが、なぜ。

 さらにPCの時計が一分おきに遅れ、やがて画面に青い警告が現れた。


  Train Recorder Error

  Next update: 07:18


 今はすでに午前十時を回っている。なのにシステムは三時間前へ戻ろうとしている。私は電源ケーブルを引き抜いた。社内は昼休み前の喧騒に満ちていて、誰もこちらを見ていない。だけどイヤホンの残骸は、なぜかデスクの引き出しに移動していた。

 そのとき天井スピーカーから避難訓練の放送が流れた。今月は予定がないはずだ。耳を澄ますまでもなく、聞き覚えのあるノイズと同じ周波数のうなりが交じっている。


 「ブレーキ効きません……!」


 私は咄嗟に手提げバッグをつかみ、オフィスを飛び出した。エレベーターを待つ間、スマホが震える。通知は一つ。「残席:105」。

 ――あと一人、誰かが座るたび、数字は減るのか。

 階段を駆け降りながら気づいた。福知山線の朝ラッシュは、事故の前も後も、立ち客がぎゅうぎゅうなのが普通だ。たまたま私が座れた原因は、人身事故で一本前が運休し、着席率が偏ったから。もし私が立っていたら、番号の計算はどうなった?


 外に出ると空は快晴。耳鳴りは止んだ。しかし歩道橋に差しかかった瞬間、遠くで警笛が三度短く鳴った。軌道上の何かを知らせる合図。イヤホンを持たなくても、私ははっきり聞こえた。

 スマホを開く。


  残席:104


 減り続けている。どこで、誰が。私は震える指で通知を消し、位置情報もオフにした。だが画面にはもう一行、別の予定が自動生成されていた。


  明日07:18 REMINDER 『曲線制限70km/h』


 予定を削除しても、更新しても、同じ時間に復活する。スマホを地面に叩きつけても、通知音はポケットの中で鳴り続けるのが目に見えるようだった。

 気づけば私は踏切の遮断桿の前に立っていた。間もなく警報機が鳴り、赤いランプが点滅し始める。イヤホンはないのに、線路の向こうからあのノイズが迫る。百、百十、百十五……。肩口で誰かの息が膨らみ、ひどく冷たい声が囁いた。


 「座れば、止まる」


 私は遮断桿をくぐり、線路から離れた。次の瞬間、快速電車が風を引き千切り、私の視界を一枚の暗い膜で塗りつぶした。すべての音が吸い込まれ、世界が一拍だけ真空になる。

 ――七時十八分を過ぎても、列車は走り続ける。

 刹那、スマホの画面がちらつき、通知がゼロになった。私はやっと呼吸を取り戻した。


     ※


 その晩、イヤホンのプラグをニッパーで切断し、ゴミ袋に入れた。けれど翌朝、ベッドサイドの充電ケーブルにプラグだけが刺さっていた。

 電車に乗るのが怖くなり、会社に在宅勤務を願い出た。上司は意外にあっさり許可した。ところが初めての在宅日、マンション前の踏切で信号事故があり、快速電車が低速で通過するたび、私のノートPCが時報を打つ。画面の隅には、消しても消しても復活する小さな通知。


  残席:103


 あれから数字は一日に一つずつ減っている。ニュースで鉄道事故は報じられていない。だがJR西日本の運行情報には、「ブレーキ検知のため一時停車」「車内点検のため遅延」などの小さなトラブルが昨年より増えたという統計が出ていた。

 私は朝になると、電車の走らない反対方向へ散歩に出る。駅へ近づかないように、カーブへ近づかないように。歩数アプリが私の位置を記録するたび、バイブが震える。


 ――残席:102


 座らなくても、乗らなくても、数字は確実に目的地へ向かっている。百を切る日が来れば、何が起こるのだろう。

 イヤホンの断線部をゴミ袋に捨てても、翌朝にはケーブルが再び一本につながってベッドに置かれている。プラグの金メッキは、触れるたびに冷たく、まるで列車の手すりのように乾いていた。


                          (了)


【実在する出来事・引用】

・2005年4月25日、JR福知山線脱線事故(兵庫県尼崎市、死者107名、負傷者562名)。

・事故原因の一つとされた「曲線制限70㎞/h」を超えての突入。

・2023年に起きた総務省「Jアラート訓練」誤配信。

・誤った通知やダミー予定がスマートフォンに自動挿入されるバグ(実例:2021年のiCloudカレンダースパム)。

・鉄道各社で発生した軽微なブレーキ検知・戸挟み遅延の増加(国交省「運転障害統計」)。


史実は上記の通りですが、物語の人物・超常現象は創作です。

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