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怖い話  作者: 健二
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古井戸の囁き


八月の暑さが峠を越えた頃、祖父の体調が急変したという連絡を受け、私は十数年ぶりに出身地である九州の山間の集落へと戻った。東京での慌ただしい日々を送る中、すっかり忘れていた故郷の風景が私を迎え入れた。


集落に通じる一本道を進むと、記憶の中よりも小さくなった祖父の家が見えてきた。庭には夏の終わりを告げる赤とんぼが飛び交い、縁側には痩せこけた祖父が横になっていた。


「おぉ、敬介か。よく来たな」


祖父の声は弱々しく、かつての厳格な面影はどこにもなかった。


医者の診断では、祖父の余命はあと一週間ほど。私は看病のため、しばらく滞在することにした。夜になると、集落を覆う静寂は東京では考えられないほどで、虫の音だけが響き渡った。


三日目の夕刻、祖父が突然目を覚まし、私の手を強く握りしめた。


「あの井戸、封印しておくんだ」


意味不明な言葉を残し、祖父は再び眠りについた。翌朝、隣家の老婆に聞くと、集落の裏山に古井戸があることを教えてくれた。


「あそこには近づかない方がいい。五十年前の出来事があってね…」


好奇心に駆られた私は、その日の午後、裏山へと足を運んだ。藪をかき分け、細い獣道を進むと、苔むした石垣に囲まれた井戸が見えてきた。井戸の口は朽ちた木の板で覆われ、注連縄が巻かれていた。


風もないのに、どこからか「水を、水を…」という囁き声が聞こえた気がした。私はその声に誘われるように、注連縄を外し、板を取り除いた。井戸の中は闇に包まれ、底が見えなかった。


「お前が来るのを待っていた」


井戸の底から女性の声が聞こえた。恐怖で動けなくなった私の目の前で、井戸から黒い水が溢れ出し始めた。その水は地面を這うように動き、私の足元へと近づいてきた。


「逃げちゃダメよ」


黒い水から女性の腕が伸び、私の足首を掴んだ。冷たく湿った感触に悲鳴を上げた私は、気を失った。


目が覚めると、祖父の家の縁側だった。夕日が沈み、辺りは薄暗くなっていた。


「気がついたか」祖父の声だった。「あの井戸を開けたな?」


私が頷くと、祖父は深いため息をついた。


「あの井戸には昔、水争いで殺された女が投げ込まれた。それから、干ばつの年には若い者が一人、井戸に引きずり込まれる。五十年前、お前の父親と私でその井戸を封印したんだ」


震える手で祖父は古い写真を差し出した。そこには若かりし頃の祖父と、私の父、そして見知らぬ女性が写っていた。


「この女性は?」と尋ねると、祖父は「お前の本当の母親だ」と答えた。


私の母は私が生まれてすぐに病死したと聞かされていた。祖父の言葉に混乱する私に、祖父は続けた。


「お前が生まれた年、大干ばつがあった。井戸の女は母子をセットで欲しがった。だがお前の母親は最後の力でお前だけを井戸の外へ投げ出した…」


その夜、祖父は静かに息を引き取った。葬儀の日、雨が降り始めた。それから三日三晩、激しい雨が集落を襲い、裏山は土砂崩れを起こした。


後日、役場の人間が言うには、古井戸は土砂に埋まって跡形もなくなったという。だが、私の耳には今も時折、「水を、水を…」という囁きが聞こえてくる。そして鏡に映る私の顔が、あの写真の女性に少しずつ似てきているような気がしてならない。


---


九州地方には「水子の井戸」と呼ばれる古井戸が実際に存在します。1954年の記録的な干ばつの際、熊本県の山間部の集落で、井戸から女性の泣き声が聞こえるという噂が広まりました。調査の結果、その井戸からは複数の人骨が発見され、専門家の鑑定によると、江戸時代後期から明治初期にかけての女性や幼児の骨であることが判明しました。現地では「水争いの犠牲者」「間引きの跡」など様々な噂が立ちましたが、真相は明らかになっていません。現在もこの井戸は石で塞がれ、地元の人々は近づかないようにしているといいます。

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