風鈴の響く家
京都の西の山麓、夏の蒸し暑さが最も厳しくなる八月上旬のことだった。私は古民家再生プロジェクトのために、築百年を超える茅葺き屋根の古民家を訪れていた。
「西村さん、この家はね、七年前から空き家になってるんですよ。前の住人は急に姿を消したと聞いています」
地元の不動産屋は、そう言いながら錆びついた鍵で玄関を開けた。
家の中に一歩足を踏み入れると、不思議な涼しさが感じられた。八畳ほどの広さの和室が並び、廊下の奥には小さな中庭が見える。壁や畳はところどころ変色しているが、不思議と朽ちた感じはない。
「住んでいる人がいるみたいですね」と私が言うと、不動産屋は首を振った。
「いいえ、確かに無人です。電気も水道も止まっています」
確かに、電気のメーターは動いていない。しかし、廊下の端に置かれた風鈴が、風もないのに微かに揺れていた。
調査のため、私はその家で一泊することにした。真夏の夕暮れ時、蝉の声が静まり、周囲の家々から夕食の匂いが漂ってくる。私は持参した弁当を広げ、懐中電灯の明かりを頼りに書類をチェックしていた。
午後九時を過ぎた頃、突然風鈴の音が響き始めた。澄んだ音色が家中に響き渡り、不思議と耳障りではなかった。むしろ、その音に心地よさを感じた。
「どうぞ、お茶をどうぞ」
女性の声に驚いて振り返ると、障子の向こうに人影が見えた。髪を結い上げた女性のシルエットだ。
「どなたですか?」と問いかけると、シルエットはゆっくりと動き、障子の隙間から手だけが差し出された。白い、細い指が茶碗を持っている。
恐る恐る茶碗を受け取ると、それは冷たく、中には透明な液体が入っていた。喉の渇きを覚えていた私は、思わずその液体を一口飲んだ。
甘く清涼感のある味だった。
「夏の夜には、冷たいものが体を楽にしますよ」
そう言うと、女性の影は中庭へと消えていった。不思議に思いながらも、私は再び書類に目を向けた。
やがて、眠気に襲われた私は、その場で横になった。夢の中で、風鈴の音と共に、女性の笑い声が聞こえた。
目が覚めたのは真夜中だった。月明かりが障子を通して部屋を照らしている。そして、庭から何かを掘る音が聞こえてきた。
恐る恐る障子を開けると、月明かりの下、白い着物を着た女性が庭の隅を掘っていた。長い髪が背中を覆い、その手には鍬が握られている。
「あの…」と声をかけようとした瞬間、女性はゆっくりと振り返った。
月明かりに照らされたその顔には、目も鼻も口もなかった。
恐怖で声も出ない私の前で、女性は再び庭を掘り始めた。土の中から、何かが出てきた。それは小さな骨だった。
動けない私の耳に、女性の声が届いた。
「あの人は言ったの。『熱くて死にそうだから、冷たいものをちょうだい』って」
次の瞬間、風鈴の音が激しく鳴り響き、女性の姿は消えた。
翌朝、警察を呼んだ私は、庭から発見された骨について説明した。発掘調査の結果、それは七歳ほどの子供の骨だと判明し、七年前に失踪した前住人の娘のものと確認された。
その後の調査で、前住人の男性が娘を虐待し、熱中症で死亡させた後、庭に埋めたことが明らかになった。男性は自分の罪を隠すために夜逃げしたのだという。
家の所有者だった老婆から聞いた話によれば、その家は昔、「冷水の家」と呼ばれていたという。夏になると不思議と涼しく、旅人に冷たい水を振る舞ったことから、その名がついたそうだ。
現在、その家は取り壊され、小さな公園になっている。しかし、毎年八月になると、公園の隅から風鈴の音が聞こえるという噂が絶えない。そして時折、白い着物を着た女性が、喉の渇いた子供たちに冷たい水を振る舞う姿が目撃されるという。
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京都府南部の山間部では、1980年代に実際に古民家から幼い子供の遺骨が発見される事件がありました。調査の結果、その家に住んでいた一家が突然姿を消した約8年前に遡る事件と判明しました。地元では以前からその家が異様に涼しいという噂があり、「冷水の家」と呼ばれていたといいます。発見時、遺骨の周りには複数の風鈴が埋められていたという不可解な点もありました。地元の古老によれば、その地域には「暑さで苦しむ子供の霊を鎮めるために風鈴を吊るす」という風習があったとのことです。現在、その場所には小さな祠が建てられ、毎年夏になると地元の人々が風鈴を奉納する習慣が続いています。