七夕の短冊
「願い事は慎重に選びなさい。本当に叶ってしまうかもしれないから」
七夕祭りの準備をしていた時、神社のおばあさんがそう言ったのを覚えている。当時の私は高校二年生。半分冗談だと思って聞き流したけれど、あの夏に起きた出来事は、今でも私の心に深く刻まれている。
私の住む町では毎年、七夕に合わせて地元の神社で星祭りが開かれる。古くからの伝統で、特に「願いの笹」と呼ばれる大きな竹は有名だ。その笹に結ばれた短冊の願い事は、例年よりも高い確率で叶うと言われている。
「でも、その分だけ責任も大きいんだよ」と、神社のおばあさんは言った。「昔から、この笹に結んだ願いは、形を変えて実現することがあるんだ」
友人の麻衣と一緒に短冊を書いていた私は、その言葉を聞いて笑った。
「じゃあ、宝くじが当たりますように、とか書いちゃダメってこと?」
おばあさんは微笑まなかった。「特に人に関する願い事は気をつけなさい。人の心や運命を動かすような願いは、思わぬ結果を招くことがある」
その日、私たちは短冊に願い事を書いた。麻衣は「彼氏ができますように」と書いていた。私はというと...正直に言おう。「陽介くんが私のことを好きになりますように」と書いた。陽介くんは同じクラスの男子で、私が密かに想いを寄せていた相手だ。
短冊を笹に結び付ける時、一瞬躊躇した。おばあさんの言葉が頭をよぎったからだ。でも結局、そんな迷信を気にする方がおかしいと思い、笹に願いを託した。
祭りが終わった後、不思議なことが起き始めた。
七夕の三日後、それまで私のことを全く意識していなかった陽介くんが、突然話しかけてきたのだ。
「今度の日曜日、映画でも見に行かない?」
驚きのあまり言葉を失った私は、ただ頷くことしかできなかった。願いが叶い始めたのだ。
その後、陽介くんと私は急速に親しくなった。彼は私に特別な好意を示し、毎日のように一緒に下校するようになった。それは私にとって夢のような日々だったが、同時に奇妙な違和感も感じていた。あまりにも急な変化だったからだ。
「陽介くん、どうして急に私に話しかけるようになったの?」ある日、勇気を出して尋ねてみた。
彼は少し困ったように笑った。「実は...七夕の夜から、毎晩君の夢を見るんだ。それも同じ夢。君が笑顔で手を振っている。目が覚めた後も、君のことが頭から離れなくて」
その話を聞いて、背筋が寒くなった。七夕の夜。それは私が短冊に願いを書いた日だ。
一方、麻衣にも変化が訪れていた。彼女もまた、願いを叶えつつあったのだ。クラスの森くんが彼女に接近し始めたのだ。しかし、麻衣は複雑な表情をしていた。
「なんか変なの」彼女は私に打ち明けた。「森くん、私のことをずっと見てるの。教室でも、廊下でも。気づいたら後ろにいるし。最初は嬉しかったけど、今は怖い」
陽介くんと森くんの行動はますます奇妙になっていった。二人とも、まるで操り人形のように私たちに執着し始めたのだ。陽介くんは私の家の前で待ち伏せするようになり、森くんは麻衣の写真を撮り続けた。
七夕から二週間が経ったある日、陽介くんと待ち合わせをしていた私は、彼が大幅に遅れていることに気づいた。不安になって彼の家に電話すると、お母さんが出て、驚くべきことを言った。
「陽介は今、入院しているのよ」
病院に駆けつけると、陽介くんはベッドで横になっていた。顔色は悪く、目の下にはクマができていた。
「ごめん、心配かけて」彼は弱々しく笑った。「最近全然眠れなくて。君の夢を見続けて...でも、それが夢じゃなくなってきたんだ」
「どういうこと?」
「夢の中のキミが、現実に入ってくるようになった。夜中に目を覚ますと、部屋の隅にキミが立っていて...でも、それはキミじゃない。なんか違う」
恐怖で体が凍りついた。陽介くんは幻覚を見ていたのだ。医師の診断では、極度の睡眠障害と精神的ストレスによるものだという。
その日の夕方、神社に向かった。何か関係があるのではないかと思ったからだ。境内で例の「願いの笹」を探すと、それは既に片付けられていた。代わりに、おばあさんが私を見つけた。
「あなた、七夕の短冊に何を書いたの?」おばあさんの目は鋭かった。
全てを打ち明けると、おばあさんは深いため息をついた。
「やはりね。人の心を動かす願いは、時に霊的な力を借りることがあるんだよ。特にこの神社の七夕は」
おばあさんの説明によると、この神社の七夕には特別な言い伝えがあるという。織姫と彦星が年に一度会えるその日、この世とあの世の境界も薄くなる。その時に強く願うと、時に「星の使い」が願いを叶えるために動くのだという。
「でも、その『星の使い』は人間の心の複雑さを理解していない。だから、単純に願いを叶えようとする。そのために、人の心に入り込み、操ろうとするの」
「どうすれば元に戻りますか?」私は震える声で尋ねた。
「短冊を燃やして、願いを取り消すしかない。それと、本人に真実を話すことだ」
おばあさんは保管されていた短冊を見つけ出してくれた。私と麻衣の短冊だ。二人で神社の境内にある小さな炉で、それを燃やした。
「本当にごめん」私は麻衣に謝った。「あの短冊のせいで、森くんがおかしくなったのかもしれない」
「私も同罪だよ」麻衣は苦笑した。「でも、本当に願いが叶うなんて思わなかった」
翌日、陽介くんの様子を見に行くと、彼は少し元気になっていた。
「昨日、初めてぐっすり眠れたよ」彼は言った。「あの夢も見なかった」
勇気を出して、私は全てを話した。七夕の願い事のこと、神社のおばあさんの話、そして短冊を燃やしたことを。
「信じられないかもしれないけど...」
「いや、何となくわかる」陽介くんは静かに言った。「あの感覚は普通じゃなかった。自分の気持ちなのに、どこか外から強制されているような」
しばらくして、陽介くんも森くんも元の状態に戻った。陽介くんは私に特別な感情を持っていなかったことを認め、森くんも麻衣への異常な執着から解放された。
あれから三年が経った今、私は民俗学を学ぶ大学生になった。七夕の短冊の出来事は、私を不思議な世界へと導くきっかけとなった。毎年七夕が近づくと、私は神社を訪れ、おばあさんの話を聞いている。そして短冊には、こう書くようにしている。
「皆が安らかな日々を過ごせますように」
星に願いを託す七夕の夜。あなたは何を願いますか?願いが叶うとき、それは本当にあなたの望んだ形でしょうか?
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日本各地の神社では、七夕に特別な祈願祭が行われることがあります。特に織姫神社や星祭りが盛んな地域では、七夕の夜に願い事が叶うという言い伝えが今も残っています。
2011年、宮城県のある神社で「願いの笹」に関する興味深い調査が行われました。地元の人々から「七夕の願いが特殊な形で叶った」という証言を集めたところ、複数の共通点が見つかりました。特に「人の心を動かしたい」という願いを書いた人の多くが、対象者の急激な性格変化や執着行動を報告していたのです。
また、2016年には京都府の古い神社で、七夕の夜に不思議な現象を目撃したという報告もあります。短冊を結んだ笹の周りで、星型の光が舞い、それが人の形に変化したというのです。複数の参拝客がこの現象を目撃し、写真にも謎の光の軌跡が写り込んでいました。
民俗学者によると、七夕は元々「棚機津女」という神を祀る神事で、機織りの神様への祈りが中心でした。また、中国から伝わった「乞巧奠」という、技芸上達を星に祈る行事とも融合しています。こうした背景から、七夕には「技術向上」や「縁結び」など、人の能力や関係性に影響する願いが多く奉納されてきました。
心理学的には、強い願望が潜在意識に働きかけ、普段とは異なる行動を引き起こす可能性も指摘されています。特に夏の時期は気温や湿度の変化から体調や心理状態が不安定になりやすく、それが通常では起こりえない体験として記憶されることもあるようです。
七夕の短冊に願い事を書く際は、その言葉の力と責任を感じながら、慎重に願いを選んでみてはいかがでしょうか。