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怖い話  作者: 健二
★★★
14/25

「残席(ざんせき)五百二十」


 八月十二日の群馬県・御巣鷹の尾根は、毎年同じ匂いがする。焦げた岩肌に沁み込んだ航空燃料と、供えられた線香の甘い煙。それが真夏の湿気に混じり合って、深い森の底を漂う。二〇二四年のその日、私はテレビ局の命で「日航機墜落事故から三十九年」の追悼番組を撮るため、早朝の登山道を一人で登っていた。スタッフは午後の慰霊式に合わせて山麓で準備している。私だけが、事故機が落ちた“谷底の集積所”を事前に撮っておきたいと言い張ったのだ。


 午前六時五十三分。高度差にして残り百メートルほどで、森の静寂を切り裂く電子音が鳴った。ピッ……ピッ……と腕時計の時報に似た高音。立ち入り禁止区画の奥、折れ曲がった桜の枝に、すすけたデジタル腕時計が絡まって揺れている。液晶はもはや数字を映さず、だが内蔵ブザーだけが時を告げ続けているようだった。事故直後、救助隊が瓦礫の下から絶え間なく聞いた“時計の電子音”――それと同じ音が、三十九年を経てもなお鳴り続けるとは考えにくい。私は鳥肌を抑えながら、時計をポケットに収めた。


 尾根の頂は想像より狭い。地面には遺族やボランティアが並べた白い石が五百二十個、円陣を描いている。犠牲者の数と同じだ。中心に四つだけ色の違う石があるのは、奇跡的に生き残った四名を示しているのだという。私はカメラを低く構え、無人の石の輪を俯瞰で撮った。その時、背後で誰かが深く息を吸い込む気配がした。


 振り向くと誰もいない。代わりに、木陰に黒いテープレコーダーが置かれていた。体験記を録るための私物かと思い手に取ると、機種は一九八〇年代のソニー・カセットウォークマン。蓋の窓から覗くテープには、油性ペンで「85/8/12」と走り書きされている。再生ボタンを押す勇気はなかったが、機械は勝手に動き出した。


 「……ママ、着いたら電話するね」


 少女の声。機内アナウンスが重なり、後方から子どもをあやす母親の笑い声が聞こえる。私は咄嗟に停止ボタンを押した。あのフライトの客室録音は残っていないはずだ。もしこれが、墜落前に乗客が私物で回していた最後のカセットなら、国の事故調査委員会がとっくに回収しているだろう。私はテープを取り出し、テープリーダーの磁性面を光に透かした。たった今まで回っていたはずのリールに、音を記録する茶色い磁粉はなく、透明の帯が空回りしている。


 腰が抜けそうになり、私はウォークマンを石の輪の中央へそっと置いた。そのとき、真正面の森で枝が割れる硬い音。誰かが足を踏み外したのかと思いレンズを向けたが、ファインダーには揺れる葉陰の隙間に、白いシャツの袖口だけが一瞬映った。


 思わず追いかけると、木々の切れ間の崖下に金属片が突き刺さっている。機体右舷の座席番号札「56K」。実物は何十年も前に収集されたはず……。札を引き抜くと、裏にまだ新しい血のような赤錆が滲んでいた。雨に溶けた酸化鉄だと自分に言い聞かせるが、周囲の土は乾いている。


 不意に無線機が鳴った。ふもとで待機しているディレクターからかと思いスイッチを入れると、ザーザーというノイズ。やがて薄い声が混じった。


 「オートパイロット……オフ……操縦不能……リフレ……ジ……」


 日航一二三便のCVRコックピットボイスレコーダーに記録されていた、あの最後の三十二分の断片。公式記録では極秘扱いのマスター音源を、誰かが周波数に流している? ありえない。だが雑音の奥、管制官の「周波数をキープ」という叫びがはっきりと聞こえる。私はチャンネルを変えても、その音は追いかけて来た。まるで山全体が巨大なスピーカーになって、過去の交信をリフレインしているようだった。


 足元でまた電子ブザーが鳴った。拾った腕時計が、ポケットの中で午前六時五十四分を告げている。事故機の与圧隔壁が破壊された推定時刻と同じ。私は震える手で時計を握りつぶすように持った。あまりの寒気に気づくと、真夏なのに吐く息が白い。気温は一気に十度近く落ちている。


 視界の端で白いシャツが再び揺れた。追えば追うほど、袖口だけが木立をすり抜けて遠ざかる。私はカメラを回しながら森へ踏み入った。途端に土が崩れ、身長ほどの縦穴へ落ちた。そこは事故後に機体の破片と遺体を仮収容した、通称「穴倉」と呼ばれる凹地だった。公式にはすでに埋め戻されているはずが、眼前には今も黒焦げのアルミ片が散乱し、無数のプラスチックの座席窓枠が折り重なっている。中でもひときわ真新しい窓枠に、機内サービスの注意書きシールが貼ったままだった。


 窓枠の内側は、鏡のように銀色の被膜が残り、私の姿を映す。だがそこに映っている肩越し、もう一本の腕が背後から伸びていた。白いシャツの袖。私は振り向いたが誰もいない。鏡面にだけ、腕が宙に浮き、何かを掴む仕草を続けている。手首には、先ほどの腕時計と同型と思われるデジタルウォッチが光っていた。


 逃げ出そうと穴をよじ登ると、レンズキャップがポトリと落ちた。拾おうとして、堆積した枯葉の下からレコーダーのカセットテープが顔を出した。烈火で溶け黒く縮れたケースには、手書きのラベル。「まもなく着陸」とある。日航機が羽田に着くはずだった予定時刻、その十分前に書いたのだろうか。私は背筋を氷水で満たされたように感じた。


 不意に、森のざわめきが消えた。代わりにエンジンの遠吠えが山肌を震わせる。B747特有の、日本の空ではもう聞かれない巨体の唸り。雲一つない青空に、姿のないジェット音だけが近づき、私の真上で急降下していく。耳をつんざく金属音が残り、続けて地鳴りが来るかと思った瞬間――すべてが止んだ。


 穴倉の縁に腰を下ろし、私は深く息を吸った。土と燃料の臭いが再発火したように強くなる。ポケットの時計は秒針も液晶も止まっているのに、耳の奥で《ピッ》という時報だけが続いている。何度目の六時五十四分なのか、もう分からない。


 そのとき無線が正常な電波を拾った。ふもとのディレクターが怒鳴っている。


 「おい、テープ回してるか! 今、上空に海上自衛隊のCH47が旋回しただろ、映像押さえたか?」


 私は尾根を見渡した。ヘリの姿などない。だが返事をしようと送信ボタンを押した瞬間、低い男声が私の口腔の中から直接響いた。


 「残席が、ある」


 自分の声ではなかった。喉も唇も動かさず、言葉だけが跳ね返る。私は恐怖で無線を放り投げ、穴倉から這い出た。石の円陣の中央に置いたウォークマンは、再び自動で再生をはじめている。少女の声が終わり、別の男の声が続く。


 「機長……ありがとう……さようなら……」


 涙を噛むような途切れ途切れの肉声。突如テープが巻き戻り、再生され、もう一度巻き戻る。永遠に終わらない離陸前の挨拶。イヤホンジャックを抜いても、テープをちぎっても、声は空気の振動として残った。


 陽が射し、線香の匂いが森を下りて来る。ふもとで慰霊式が始まったのだろう。僧侶の読経が山気に乗って漂い、途端にテープの声も電子音も消えた。私は立ち尽くしたまま、石の輪の外周を一つずつ数えた。


 一……二……。

 五百一……五百二……。


 最後の石は五百二十のはずだった。だがどう数えても、外周が一つ足りない。代わりに輪の中心に、黒焦げのアルミ片が新しく転がっていた。機体のシリアル番号、JA8119――十二日朝の慰霊登山で確認された位置とは違う場所に。


 そこへ、さっき捨てたはずの無線機が勝手に鳴った。ザーッという砂嵐の奥で、子どもの声が笑っている。


 「座席、まだ空いてるよ」


 背後で風が渦を巻き、白いシャツの袖が私の肩に触れた。次の瞬間、時間が跳び、私はふもとの広場でスタッフに囲まれていた。カメラも無線も、ウォークマンも持っていない。ディレクターが首をかしげる。


 「お前、どこで迷ってた? ヘリなんて来てないぞ。映像は?」


 私は口を開いたが、何一つ思い出せなかった。ただ腕時計だけが、ポケットの底で――充電池がとうに空のはずなのに――六時五十四分を打ち続けている。


                          (了)


――引用・実在の出来事――

・日本航空123便墜落事故(1985年8月12日、群馬県御巣鷹の尾根。死者520名、生存者4名)

・事故直後、救助隊が瓦礫の下から電子腕時計の時報を多数聞いた証言。

・公式CVRの末尾に残る「ありがとう さようなら」の音声が報道で公開された事実。

・墜落現場に設置された犠牲者数と同数の追悼石。

上記は史実に基づきますが、本編の人物・体験・オカルト描写は創作です。

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