天の川の渡り人
「七夕の夜、天の川は本当に渡れるようになるんだよ」
天文部の顧問である藤原先生はそう言って、にっこりと笑った。私たち高校天文部は、七夕の夜に山の天文台で星空観察会を開く準備をしていた。
「織姫と彦星が会えるように、カササギが橋を作るんでしょ?」と部員の一人が冗談めかして言った。
「それは中国から伝わった物語だけど、日本の古い言い伝えでは少し違うんだ」先生は真剣な表情になった。「天の川は、この世とあの世を分ける境界とも考えられていた。七夕の夜は、その境界が薄くなる特別な夜なんだ」
私たち五人の部員は半信半疑で聞いていた。科学を学ぶ天文部としては、そんな言い伝えを真に受ける者はいなかった。しかし、先生の次の言葉に、部室は静まり返った。
「私の祖父は、七夕の夜に天の川の向こうから来た人と会ったと言っていた」
その言葉をきっかけに、七夕の星空観察会は通常の観測会とは少し違う企画になった。「天の川伝説」をテーマに、来場者に星座だけでなく、七夕にまつわる日本各地の民間伝承も紹介することになったのだ。
七月七日の当日、私たち天文部は市内から離れた山の天文台に集合した。日が沈み、空が暗くなるにつれ、満天の星空が広がり始めた。特に天の川がくっきりと見え、銀色の帯が空を横切っていた。
観察会が始まり、来場者たちは望遠鏡を覗いたり、私たちの解説を聞いたりして楽しんでいた。私は「七夕伝説コーナー」を担当し、織姫星と彦星、そして天の川(銀河)について説明していた。
「日本の古い言い伝えでは、天の川はあの世とこの世を分ける川とも考えられていました。七夕の夜には、普段は渡れない川を渡って、向こう側から誰かが来ることがあるとも...」
説明を終えた後、ふと空を見上げると、天の川が以前より明るく輝いているような気がした。星々の間に、かすかに青白い光の道が浮かび上がっているように見える。
「きれいですね」
突然、隣から声がした。振り返ると、見知らぬ老人が立っていた。白髪で、古風な浴衣を着ている。来場者の一人だろうか、と思ったが、受付で見た覚えがない。
「はい、今夜は特に天の川がよく見えます」私は礼儀正しく答えた。
「天の川は、帰り道なんだよ」老人は静かに言った。「今夜だけは、向こう側から来ることができる」
その言葉に、背筋がゾクッとした。藤原先生の話を思い出したからだ。
「あの...どちらからいらしたんですか?」
老人は答えず、にっこりと笑った。「君は山田家の子だね?」
驚いた。私の苗字は確かに山田だが、名札もつけていないし、自己紹介もしていない。
「どうして私の名前を?」
「君のおばあちゃんによく似ているよ。目元が特に」
私のおばあちゃんは五年前に亡くなっている。生前、私はよく「おばあちゃんに似ている」と言われていた。
「おばあちゃんを知っているんですか?」
「ああ、向こう側でね」老人は天の川を指差した。「彼女は元気にしているよ。君のことをいつも見守っていると言っていた」
震える手で携帯を取り出し、写真を探した。おばあちゃんの古い写真がある。それを老人に見せると、彼は穏やかに頷いた。
「そう、まさにこの人だ。七夕の前の日に、『孫に会いに行く』と言っていたんだよ」
冷や汗が背中を伝った。おばあちゃんが亡くなったのは、七月六日。七夕の前日だった。
「あなたは...」
言葉が喉につかえた。老人は優しく微笑み、私の肩に手を置いた。その手は冷たく、しかし不思議と安心感を与えるものだった。
「心配することはないよ。今夜だけの訪問者さ。おばあちゃんからのメッセージを届けに来ただけだから」
「メッセージ?」
「『幸せに生きなさい。いつも見守っているから』だよ」老人は言った。「それと、『天文学者になる夢、応援しているよ』とも」
その言葉に、涙があふれた。高校に入って天文部に入ったこと、将来は天文学者になりたいという夢を持っていることは、おばあちゃんが亡くなった後に決めたことだった。誰にも言っていない夢だったのに。
周囲を見回すと、観察会は通常通り進んでいた。誰も私たちの会話に気づいていないようだ。
「もう行かなくてはならない」老人は天の川を見上げた。「橋は夜明けまでしか続かないからね」
「待ってください!」慌てて引き止めようとしたが、老人は既に歩き出していた。月明かりの中、彼の姿はどんどん透明になっていくように見えた。
「また来年の七夕に」
その言葉が風に乗って届いた後、老人の姿は完全に消えてしまった。その場所には、一輪の白い花だけが残されていた。おばあちゃんが好きだった桔梗の花だった。
観察会が終わり、片付けをしていた時、藤原先生が私に近づいてきた。
「さっき君と話していた老人は誰?随分長話してたね」
「先生にも見えたんですか?」
「もちろん。白い浴衣を着た老人だろう?」先生は不思議そうに言った。「でも不思議なことに、写真には写っていなかったんだ」
先生は観察会の様子を撮影した写真を見せてくれた。確かにそこには、望遠鏡の前で説明する私の姿があったが、隣に立っていたはずの老人の姿はなかった。
「それと、これも変なんだ」先生は続けた。「受付の記録を確認したけど、そんな老人は来場者リストにないんだよ」
その夜、家に帰ると、仏壇の前で母が驚いた声を上げていた。
「どうしたの?」
「おばあちゃんの写真の前に、桔梗の花が置いてあるの。誰が置いたのかしら?」
仏壇を見ると、確かにおばあちゃんの遺影の前に、天文台で老人が残していったのと同じ白い桔梗の花が活けてあった。
その夜、私は窓から天の川を見上げながら、おばあちゃんのこと、そして不思議な老人のことを考えていた。星々の間に、かすかに光る道が見えるような気がした。あれは本当に、あの世とこの世を結ぶ道なのだろうか。
それから毎年、七夕の夜には天文台で星空観察会を手伝うようになった。そして密かに、あの老人が再び現れないかと期待している。まだ会えていないけれど、天の川が特に明るく輝く夜には、誰かが向こう側から見守ってくれているような気がしてならない。
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日本では古来より、天の川(銀河)には特別な意味が込められてきました。「天の川」という名前自体が、天上を流れる川という認識を示しています。特に奈良時代以前の日本では、天の川は「死者の道」や「魂の通り道」とされることもありました。
興味深いことに、日本各地には七夕の夜に関する不思議な体験の報告が数多く残されています。2010年、宮城県の山間部での星空観察会で、参加者の一人が「家族の形をした光の集まり」が天の川の方向から近づいてきたのを目撃したという記録があります。その参加者の祖父が亡くなった日は、七夕の前日だったそうです。
また、2015年には長野県の天文台で、七夕の夜に撮影された天の川の写真に、説明のつかない光の道が写り込んでいたという事例も報告されています。通常の星の光や大気現象では説明できないその光は、まるで天の川から地上へと伸びる橋のように見えたといいます。
民俗学者によると、七夕と日本のお盆の習慣には深い関連があるといいます。旧暦では七夕(7月7日)とお盆(7月15日前後)は近い時期にあり、どちらも「あの世」と「この世」の境界が薄くなる時期と考えられていました。現在でも一部の地域では、七夕の飾りをお盆の迎え火として使う風習が残っています。
心理学的には、大切な人を失った後の喪失感と、その人との再会を願う気持ちが、特別な日に不思議な体験として現れることがあるとされています。しかし、科学では説明しきれない現象が、時に私たちの前に現れることも否定できません。
七夕の夜、天の川を見上げるとき、あなたも誰かが向こう側から手を振っているような気がするかもしれません。それは単なる想像か、それとも本当に天の川が二つの世界を結ぶ橋になるのか—その答えは、星々だけが知っているのかもしれません。