涼の間
静岡県西部の山あいにある老舗旅館「蘭水館」に、私が取材で訪れたのは八月上旬の異常な暑さが続く日だった。築百五十年を超えるこの旅館は、昔ながらの木造建築で、谷川のせせらぎと共に四季折々の景観を楽しめることで知られていた。
私が担当する旅行雑誌の特集「日本の秘湯」の取材のため、一泊することになっていた。
「いらっしゃいませ。暑い中、ご苦労様です」
玄関で迎えてくれたのは、七十歳ほどの女将だった。着物姿の彼女に案内され、古い廊下を歩いていると、不思議と涼しい風が感じられた。エアコンの音も聞こえない。
「冷房を入れてらっしゃるんですか?」と尋ねると、女将は微笑んだ。
「いいえ、うちは昔ながらの造りで、自然の風を取り入れているだけですよ。特に『涼の間』は、夏でも冷えるほど涼しいんです」
案内された部屋は、川に面した十畳ほどの和室だった。縁側に座ると、本当に心地よい涼風が吹き込んでくる。
「これが『涼の間』ですか?」
「いいえ、『涼の間』は別にございます。でも、あそこはお客様にはあまりお勧めしていないんですよ」
女将の言葉に興味を持った私は、記事のネタにもなると思い、ぜひ見せてほしいと頼んだ。
渋る女将を説得し、夕食後に案内してもらうことになった。
食事を終え、女将に連れられて旅館の奥へと進んでいく。行き止まりかと思われた廊下の突き当たりに、一枚の古びた襖があった。
「この先が『涼の間』です。昔は特別なお客様だけが使う部屋でした」
女将が襖を開くと、そこには八畳ほどの質素な和室があった。窓も縁側もなく、ただ中央に古い座布団が一つ置かれているだけ。
しかし部屋に足を踏み入れた瞬間、驚くほどの冷気に包まれた。真夏の夜とは思えない、まるで冬の朝のような冷たさだった。
「どうして、こんなに冷えているんですか?」
「わかりません。昔からこの部屋だけは、夏になると異様に冷えるんです」
女将は部屋の中に入ろうとせず、廊下から私を見つめていた。
「少しだけ中を見せていただきますね」と言って、私は部屋の中央へと歩み寄った。壁には古びた掛け軸が一つかかっているだけで、他に特別なものは見当たらなかった。
ふと足元を見ると、畳の間に一筋の黒い髪の毛が見えた。かがんで手に取ろうとした瞬間、
「触らないで!」
女将の声に驚いて振り返ると、彼女の表情が強張っていた。
「もう、出ましょう」
部屋を出て襖を閉めた後、女将は深くため息をついた。
「実は、この部屋には言い伝えがあるんです」
女将の話によれば、明治時代、この旅館を訪れた若い女性客が、この部屋で亡くなったという。真夏の暑さで体調を崩したその女性は、涼をとるためにこの部屋に案内されたが、翌朝には冷たくなって発見された。
「それ以来、夏になるとこの部屋だけが異常に冷えるようになったんです。そして時々、女性の泣き声が聞こえることがあります」
その夜、私は自分の部屋に戻った。しかし、「涼の間」の不思議が気になって眠れなかった。真夜中過ぎ、トイレに立った帰り道、ふと廊下の奥に目をやると、「涼の間」の方から青白い光が漏れているのが見えた。
恐る恐る近づくと、襖の隙間から女性の泣き声が聞こえてきた。
「暑い…水を…お願い…」
震える手で襖を少し開けると、部屋の中央に若い女性が座っていた。着物姿の彼女は、顔を俯かせ、長い黒髪が床に垂れていた。
「大丈夫ですか?」と声をかけると、女性はゆっくりと顔を上げた。
月明かりに照らされたその顔は、青白く、目と口から水が溢れ出ていた。
「助けて…暑くて…死にそう…」
彼女の体から水が滴り落ち、畳が湿っていく。恐怖で声も出ない私の目の前で、女性の体が徐々に溶けていくように見えた。
「あなたの体温が…欲しい…」
女性が私に向かって手を伸ばした瞬間、後ろから誰かに引っ張られた。振り返ると、女将が立っていた。
「だめです!近づいてはいけません!」
女将に連れられて自分の部屋に戻った私は、全身の震えが止まらなかった。
「あれは…」
「明治の頃に亡くなった女性の霊です。彼女は熱中症で亡くなったのではなく、実は…」
女将の話によれば、その女性は川で溺死したのだという。当時、若い女中と恋仲になった彼女の夫が、妻を殺害して川に沈め、熱中症による急死と偽ったのだ。
「彼女の霊は、自分の体温を奪われたと思い込み、夏になると生きている人の体温を求めて現れるんです」
翌朝、チェックアウト時、女将は私に一通の封筒を手渡した。
「これは昨夜お会いになった方の写真です。明治三十二年に撮影されたものです」
封筒の中には、色あせた写真が一枚。そこには確かに、昨夜見た女性と同じ顔が写っていた。
それから数ヶ月後、その旅館の特集記事を書き上げた私は、「涼の間」のことには一切触れなかった。しかし、それ以来、毎年夏になると、異常な寒気を感じる日があり、時々枕元で「暑い…水を…」という囁きが聞こえることがある。そして鏡に映る自分の顔が、少しずつあの女性に似てきているような気がしてならない。
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静岡県に実在する老舗旅館で1950年代に起きた怪奇現象があります。この旅館には「涼の間」と呼ばれる部屋があり、真夏でも異常に冷える特徴があったとされています。
1953年、地元の新聞記者がこの現象を取材しに訪れた際、深夜に女性の泣き声を聞き、部屋で青白い女性の姿を目撃したという記録が残っています。その後の調査で、明治35年(1902年)にこの旅館に宿泊していた若い女性が不審な状況で亡くなっていたことが判明しました。
当時の記録によれば、熱中症で亡くなったとされていましたが、検死の結果、溺死の可能性が高いことが後に明らかになりました。また、女性の夫と旅館の女中との不適切な関係も噂されていました。
現在もこの旅館は営業を続けていますが、「涼の間」は立ち入り禁止とされ、毎年夏になると女性の泣き声や水の滴る音が聞こえるという噂が絶えません。2015年には、この部屋に宿泊した客が原因不明の低体温症で緊急搬送されるという事故も起きており、以来「涼の間」の存在自体が公式には否定されているといいます。