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怖い話  作者: 健二
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蜩の谷


暑さが頂点に達する八月中旬、私は民俗学の調査のため、群馬県北部にある小さな山村を訪れていた。この村は「蜩の谷」と呼ばれ、夏になると異常なほど多くの蝉が鳴く場所として知られていた。


村に到着したのは夕刻だった。宿泊先の古い民宿に荷物を置くと、女主人が心配そうな表情で私に声をかけた。


「先生、明日からの調査は結構ですが、夕暮れ以降は谷の奥には行かないでくださいね」


私が理由を尋ねると、女主人は少し言葉を濁した。


「あそこは…昔から言い伝えがあって…」


それ以上は詳しく語ろうとしなかったが、村に伝わる妖怪伝説でも調査したいと思っていた私は、むしろ興味をそそられた。


翌日、村の古老たちから聞き取り調査を始めたが、谷の奥についての質問をすると、皆一様に口を閉ざした。ただ一人、九十歳を超える老婆だけが、少し話してくれた。


「蜩の谷の奥には、『鳴き女』がいるって言われてるんだよ」


老婆の話によれば、明治時代、この村では凶作が続き、飢饉に苦しんでいた。そのとき村の長老たちは、豊作を祈願するため、生贄として若い娘を谷に捧げることを決めたという。


「くじで選ばれた娘は、谷の奥の祠に閉じ込められて、飢え死にしたんだとさ。その娘の泣き声が、今も蝉の声に紛れて聞こえるって言われてるんだよ」


その話を聞いた私は、学術的好奇心から、その日の夕方、谷の奥へと足を踏み入れた。


谷へと続く細い獣道を進むと、蝉の声が徐々に大きくなっていった。夕暮れ時なのに、その鳴き声は日中のように激しく、まるで警告しているかのようだった。


谷の最奥部に近づくと、苔むした古い祠が見えてきた。周囲の木々には、無数の蝉の抜け殻がこびりついており、その光景は異様だった。


祠の前には、古びた石碑が立っていた。「鎮魂」とだけ刻まれており、周りには打ち捨てられた人形や古い髪飾りが散らばっていた。


太陽が山の向こうに沈みかけたとき、突然、蝉の声が一斉に止んだ。辺りは不気味な静寂に包まれた。


そのとき、祠の中から微かな泣き声が聞こえてきた。


「助けて…お願い…」


若い女性の声だった。恐る恐る祠に近づくと、扉が軋んで開いた。中は真っ暗で、何も見えない。


「どなたかいらっしゃいますか?」と声をかけると、中から手が伸びてきた。青白い、骨のように痩せた手だった。


恐怖で後ずさりした私の耳に、再び声が届いた。


「お腹が空いた…何か食べるものを…」


その声に誘われるように、私は持っていたおにぎりを差し出した。手がそれを掴み、闇の中へと引き込んでいった。


次の瞬間、祠の中から何かが飛び出してきた。最初は一匹の蝉だと思ったが、次々に蝉が飛び出し、私の周りを旋回し始めた。


その数は増え続け、やがて黒い渦となって私を取り囲んだ。蝉の羽音と共に、女性の笑い声が聞こえた。


「ありがとう…久しぶりの食事だった…次はあなたを頂くわ…」


恐怖に駆られて走り出した私は、何度も転びながらも、必死に村へと逃げ帰った。宿に戻ると、女主人が青ざめた顔で待っていた。


「先生、無事でよかった…あの谷に行かれたんですね」


彼女の話によれば、十年ほど前にも、私と同じように調査に来た民俗学者がいたという。その人は谷で何かを見てから、急に痩せ始め、一ヶ月後に餓死したのだと。


「あの方の遺体は、まるで飢餓状態のようだったそうです。でも毎日、ちゃんと食事はしていたんですよ」


恐ろしさに震える私に、女主人は古い新聞の切り抜きを見せてくれた。そこには「原因不明の餓死 体内から大量の蝉の幼虫」という見出しがあった。


その夜、私は激しい腹痛で目を覚ました。トイレに駆け込むと、便器に小さな白い虫のようなものが見えた。それは蝉の幼虫だった。


翌朝、急いで東京の病院に戻った私は、検査を受けた。医師は首を傾げながら言った。


「お腹の中に何か異物があるようです。虫のようにも見えますが…」


それから一週間、私は日に日に痩せていった。食べても食べても、栄養が体に吸収されない。そして夜になると、腹の中から蝉の鳴き声のような音が聞こえるようになった。


退院後、私は再び蜩の谷を訪れた。今度は自分の運命を受け入れるために。谷の奥の祠の前に立つと、中から優しい女性の声が聞こえてきた。


「帰ってきてくれたのね。もう寂しくないわ」


祠の扉が開き、蝉の群れが私を包み込んでいく。その中に、若い女性の姿が見えた。彼女は微笑みながら、私に手を差し伸べた。


「一緒に、永遠に…」


私がその手を取った瞬間、体の中から無数の蝉が飛び出し、空高く舞い上がっていった。


---


群馬県北部の山村で1970年代に実際に起きた怪奇現象があります。この地域には「蝉の谷」と呼ばれる場所があり、夏になると異常な数の蝉が発生することで知られていました。


1972年、この地域の民俗を調査していた33歳の研究者が、原因不明の衰弱状態で発見され、その後病院で死亡するという事件が起きました。医師の証言によれば、彼の体は極度の栄養失調状態でしたが、胃の内容物からは通常の食事の痕跡が確認されました。最も奇妙だったのは、解剖の際に彼の腹部から多数の蝉の幼虫が発見されたことです。


また、地元の古文書からは、明治時代の大飢饉の際、この村で若い女性が「鎮守の神への生贄」として谷の祠に閉じ込められたという記録が見つかっています。村の古老たちの間では、その女性の霊が「鳴き女」として知られ、夏になると蝉の声に紛れて泣き声が聞こえるという言い伝えがあります。


現在も、この地域では夕暮れ以降、谷に近づくことを避ける風習が残っており、特に8月15日前後は、蝉の鳴き声が最も激しくなる時期として恐れられています。2005年には地元のテレビ局が取材を試みましたが、機材の不具合で撮影は失敗に終わり、その後スタッフの一人が原因不明の衰弱症状で入院するという出来事もありました。

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