画家の湖
滋賀県の山間にある小さな湖「青鏡湖」を訪れたのは、八月も半ばを過ぎた頃だった。私は画家である叔父の遺作展のため、彼が最後に描いていた風景を見ておきたいと思っていた。
叔父は半年前、この湖で写生中に不慮の事故で亡くなった。警察の調査では「誤って湖に転落した」とされていたが、泳ぎの達者だった叔父がなぜ溺れたのか、疑問は残っていた。
青鏡湖は観光地として知られているわけではなく、地元の人々も「あの湖には近づかない方がいい」と言うほど静かな場所だった。湖畔には簡素な民宿が一軒あるだけで、訪れる人も少ない。
「いらっしゃい。珍しいね、この時期に客は」
民宿の老婆は私を見ると、少し驚いたように言った。彼女に叔父のことを話すと、老婆の表情が曇った。
「ああ、あの画家さんね。気の毒なことだった」
部屋に案内された後、老婆はふと立ち止まり、私に囁いた。
「お嬢さん、日が落ちたら湖の近くには行かないほうがいいよ。特に満月の夜はね」
老婆の言葉に首を傾げながらも、私はまず叔父が最後に写生していた場所を確認したかった。民宿を出て、湖畔への小道を歩き始めた。
真夏の日差しが照りつける中、木々の間から青鏡湖の水面が見えてきた。その青さは神秘的で、まるで大きな宝石のようだった。湖の周囲を一周する小道を歩いていると、倒れた古い画架を見つけた。
「これは…叔父さんのかも」
画架の近くには、風雨にさらされた絵の具のチューブや、半分だけ描かれたキャンバスが落ちていた。警察は遺品を回収したはずだが、どうやら見落とされたようだ。
キャンバスには湖の風景が描かれていたが、水面に何かが映っているようにも見えた。よく見ると、それは女性の顔のようだった。水中から浮かび上がる、苦悶の表情を浮かべた女性の顔。
「こんな不気味なものを叔父さんが描くなんて…」
キャンバスを持ち帰ろうとした瞬間、風がキャンバスをさらい、湖へと飛ばしていった。キャンバスは湖面に浮かび、徐々に沈んでいった。
日が傾き始めた頃、私は民宿に戻った。夕食を終え、部屋で休んでいると、外から水音が聞こえてきた。カーテンを開けると、湖の方から白い靄が立ち上り、月明かりの下、湖面が銀色に輝いていた。
「満月…」
老婆の言葉が脳裏に浮かんだが、好奇心に駆られた私は、懐中電灯を持って外へ出た。湖畔に近づくと、靄の中から女性の歌声が聞こえてきた。美しい声だったが、どこか哀しげでもあった。
湖の中央に目をやると、月明かりの中、一人の女性が湖面に立っているように見えた。長い黒髪を湖面に垂らし、白い着物を着た女性は、腕を広げて歌っていた。
「幻覚かしら…」
そう思いながらも、私は湖の縁まで近づいた。すると女性は私の方を向き、微笑んだ。その顔はキャンバスに描かれていたものと同じだった。
「あなたも絵を描きますか?」
女性の声が靄の中から届いた。彼女は静かに手を差し伸べ、私を招くようだった。
「私は描きません。叔父が…」
「ああ、あの人ね。彼は私の姿を描こうとしたわ。でもね、私を正確に捉えることができなかった」
女性の表情が一瞬で変わり、苦悶の表情になった。湖面から彼女の体が徐々に浮かび上がってくる。着物は水を含んで重そうに見え、黒髪は海藻のように絡まっていた。
「私の本当の姿を見てください」
女性が完全に姿を現すと、その下半身は魚のようになっていた。そして体中には、絵筆のように細い棘が突き刺さっていた。
恐怖で動けなくなった私の足元に、湖の水が這い上がってきた。
「一緒に…水の中で…私のモデルに…」
女性の声が徐々に遠ざかる中、私の足は湖の中へと引きずり込まれていった。
「やめて!」
叫んだ瞬間、背後から誰かに引っ張られた。振り返ると、民宿の老婆が立っていた。
「言ったでしょう、満月の夜は湖に近づかないようにって」
老婆に連れられて民宿に戻った私は、全身の震えが止まらなかった。
「あれは…何だったんですか?」
老婆は古い写真を取り出し、私に見せた。それは大正時代に撮影されたもので、青鏡湖のほとりに立つ若い女性の姿があった。
「この湖には、昔から伝説があるんだよ。大正時代、東京から来た若い女流画家が、この湖の風景を描いていたんだ。彼女は毎日湖を描き続けたが、ある日、湖の中から女の声が聞こえると言い出した」
老婆の話によれば、その画家は徐々に正気を失い、最後には「湖の中の女を描かねば」と言って湖に飛び込み、溺死したという。
「それ以来、この湖では時々、画家たちが不審な死を遂げるんだ。皆、湖の中の女を描こうとして…」
「叔父さんも…」
「ええ、彼もその一人だったのでしょう。湖の女は、自分を完璧に描ける画家を探しているんだ。でもそんな人間はいない。だから彼女は怒り、画家たちを水中に引きずり込む…」
その夜、私は夢の中で叔父の姿を見た。彼は湖の中で絵を描いていた。キャンバスには湖の女が描かれ、叔父は苦しそうな表情で言った。
「完成させられない…彼女は常に形を変える…」
翌朝、急いで荷物をまとめ、青鏡湖を後にした私だったが、民宿を出る前、老婆が一枚の紙を私に渡した。
「昨夜、あなたの部屋の前に落ちていたよ」
それは小さなスケッチだった。湖面に映る満月と、その下に立つ私の姿。そして私の背後に、長い髪を持つ女性の顔が描かれていた。紙の隅には、叔父のサインと昨日の日付が記されていた。
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滋賀県の山間部にある小さな湖で1920年代から現代にかけて実際に起きた一連の不可解な溺死事件があります。通称「画家の湖」と呼ばれるこの湖では、1923年に東京から訪れた女流画家が謎の溺死を遂げたのを皮切りに、80年間で5人の画家が同様の状況で命を落としています。
特に奇妙なのは、溺死した画家たちの遺作に共通して、湖面から浮かび上がる女性の顔が描かれていることです。最も最近の事例は2004年で、東京在住の46歳の画家が写生中に溺死しました。彼の遺品から発見されたスケッチブックには、水中から現れる長髪の女性の姿が描かれていました。
地元では古くから「湖の女」の伝説があり、満月の夜に湖畔で歌声が聞こえるという言い伝えがあります。民俗学者の調査によれば、明治時代以前の記録にも、この湖で不審な死を遂げた人々の記述があるといいます。
地元の老人の証言によれば、大正時代に溺死した女流画家の遺体が発見された際、その体には原因不明の細かい刺し傷が多数あり、まるで「無数の筆で突かれたよう」だったと伝えられています。現在も画家たちの間では「青鏡湖の呪い」として語り継がれ、多くの画家がこの湖を訪れるものの、満月の夜に写生をする人はいないといいます。