帰郷列車
八月の盛夏、私は故郷である福島県の小さな町に十五年ぶりに帰省していた。実家の仏壇に手を合わせるためだ。東京での仕事が忙しく、母の葬儀にさえ参列できなかった私を、父は責めることなく迎えてくれた。
「よく来たな、耕平」
かつては屈強だった父の体は、今や骨と皮だけになったようだった。父と二人、灯籠の明かりだけが照らす仏壇の前で、線香を上げた。
三日の滞在予定で帰省した私だったが、初日の夜、父が急に意味深な提案をしてきた。
「明日、耕平も『帰郷列車』に乗ってみないか」
「帰郷列車?」
「ああ、お盆に一度だけ走る特別な列車だ。もう時刻表にも載っていない。地元の人間だけが知っている」
父の説明によれば、その列車は毎年八月十四日の真夜中、無人駅となった旧沼田駅に一度だけ停車するという。
「でも、あの駅は廃線になって…」
「そうだ。だが、列車は来る。お前の母さんも、毎年乗っていたんだよ」
父の言葉に首を傾げながらも、翌日の夜、私は父に連れられて旧沼田駅へと向かった。廃線となった駅は草に覆われ、駅舎は朽ち果てようとしていた。
「本当に列車が来るの?」
私の疑問に、父は静かに頷いた。
「お前はまだ覚えていないだろうが、この路線が現役だった頃、大きな事故があったんだ」
父の話によれば、四十年前の八月、この路線で列車事故が起きたという。豪雨による土砂崩れで線路が寸断され、走行中の列車が崖下に転落。二十人以上の命が失われた。
「その後、路線は廃止された。だが、事故で亡くなった人々は、毎年お盆の時期になると、この列車に乗って故郷に帰ってくるんだ」
父の話を半信半疑で聞きながら、時計を見ると午後十一時四十五分。真夜中まであと少しだ。
「母さんも、この列車に乗っていたの?」
父は首を横に振った。
「いや、母さんは事故に遭ったわけではない。だが、彼女は十年前から、毎年この列車を待っていたんだ。そして去年、母さんは初めてその列車に乗った…」
父の言葉の意味を考えている間に、突然、遠くから汽笛の音が聞こえてきた。
「来たぞ」
父が静かに言った瞬間、廃線のはずの線路の上を、一台の古めかしい客車が滑るように近づいてきた。窓からは柔らかな光が漏れ、その中に人影が見える。
列車が駅に停車すると、ドアがゆっくりと開いた。
「さあ、乗ろう」
父に促されるまま、私は恐る恐る列車に足を踏み入れた。車内は不思議なほど清潔で、薄暗い明かりの中、数人の乗客が静かに座っていた。彼らは皆、古い時代の服装をしている。
「父さん、これは一体…」
振り返ると、父の姿はなかった。ホームには誰もいない。パニックになりかけた私の肩に、誰かが手を置いた。
「耕平、久しぶり」
振り返ると、そこには母が立っていた。十年前に亡くなった母は、私の記憶の中よりも若く、美しかった。
「母さん…?」
「あら、驚かせてごめんね。でも会いたかったの」
母は微笑みながら、私の隣に腰掛けた。彼女の手は温かく、幻ではないようだった。
「これは夢?」
「夢かもしれないし、現実かもしれない。それはあなたが決めることよ」
母の言葉に戸惑いながらも、私は彼女との時間を大切にしようと決めた。二人で昔の話をし、母は私の近況を嬉しそうに聞いてくれた。
列車は闇の中をゆっくりと走り続けた。窓の外には、もう存在しないはずの風景が広がっている。四十年前の、事故が起きる前の風景だ。
しばらくして、母が真剣な表情で私に語りかけた。
「耕平、私はあなたに会いたかった。だから、父さんにお願いして、あなたをここに呼んでもらったの」
「父さんが?」
「ええ。実は、父さんも今年からこの列車に乗ることになるの」
その言葉の意味を理解した瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
「父さんも、死んだってこと?」
母は静かに頷いた。
「昨夜、心臓発作で…父さんは最期に、あなたに会えて幸せだったと言っていたわ」
信じられない思いで母の顔を見つめていると、列車が徐々に減速し始めた。
「もう着くわ。ここであなたとはお別れね」
「どこに着くの?」
「私たちの行くところよ。あなたはまだ来ちゃいけない場所」
列車が停車し、乗客たちが次々と降りていく。母も立ち上がり、私に最後の抱擁をした。
「父さんと私はもう大丈夫。あなたは自分の人生を生きて」
母が列車を降りると、ホームには父の姿もあった。二人は手を取り合い、他の乗客たちと共に、明るい光の中へと歩いていった。
気がつくと、私は旧沼田駅のベンチで一人、目を覚ましていた。夜明けの光が駅を照らし始めている。夢だったのか。
しかし、隣には父の帽子が置かれていた。急いで実家に戻ると、家は静まり返っていた。父の寝室のドアを開けると、彼はベッドで永遠の眠りについていた。表情は穏やかで、微笑んでいるようにも見えた。
枕元には一通の手紙があり、私の名前が書かれていた。
「耕平へ。もし私が先に逝ってしまったら、母さんにはよろしく伝えておくれ。そして、いつか遠い先の話だが、お前も帰郷列車に乗る時が来たら、私たちは必ず迎えに行くから」
その日以来、私は毎年八月十四日になると、あの駅を訪れる。列車は来ないが、時々、遠くから汽笛の音が聞こえるような気がする。そして風に乗って、母と父の笑い声が届くような気がするのだ。
---
福島県の山間部を走っていた地方路線で1970年代に実際に起きた鉄道事故があります。1975年8月14日未明、集中豪雨による土砂崩れで線路が寸断され、走行中の夜行列車が崖下に転落するという惨事が発生しました。この事故では23名の乗客と乗務員が命を落としました。
事故後、この路線は安全上の理由から廃止されましたが、地元では「お盆の帰郷列車」と呼ばれる不思議な現象が報告されるようになりました。特に事故があった8月14日の深夜、廃線となった駅で列車の汽笛や車輪の音が聞こえるという目撃談が複数寄せられています。
さらに奇妙なのは、1990年代に入ってから、この現象を目撃した人々の中に、後に亡くなった人が多いという点です。特に2005年には、廃駅で「列車を待っていた」という87歳の老人が、翌日自宅で亡くなっているのが発見されるという出来事がありました。
現在、この廃線跡は地元の人々によって「魂の道」と呼ばれ、毎年8月13日から15日にかけて、小さな灯籠が線路跡に灯される風習が生まれています。また、地元の古老たちの間では「帰郷列車は、故郷を離れて亡くなった者たちを迎えに行く列車」という言い伝えがあり、お盆の時期に不思議な安らぎを感じる人も少なくないといいます。