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怖い話  作者: 健二
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風鈴の届く声


三重県の小さな漁村、鳥羽市の外れにある「蒼海荘」という古い旅館に私が宿泊したのは、八月の最も暑い時期だった。文筆家として、次の小説の題材を探しに海辺の静かな場所を選んだのだ。


東京の喧騒から離れ、潮風と蝉の声だけが響く環境は、創作に打ってつけだと思った。


旅館に到着すると、七十歳を超えたと思われる女将が静かに出迎えてくれた。


「お一人様でのご宿泊ですね。ごゆっくりお過ごしください」


蒼海荘は築百年を超える木造の建物で、廊下を歩くと床が軋む。海に面した二階の一番端の部屋に案内された。縁側からは遮るものなく太平洋が見渡せる。


「このお部屋は『風鈴の間』と呼んでおります。潮風が心地よく入ってきますので」


部屋の四隅には古めかしい風鈴が吊るされていた。青い硝子で作られたそれらは、微かな風にも繊細な音色を奏でる。


「とても美しい風鈴ですね」と私が言うと、女将は少し表情を曇らせた。


「これらは特別な風鈴でして…ご先祖から伝わるものです。どうか大切に扱ってくださいませ」


夕食は部屋で頂くことにした。新鮮な海の幸に舌鼓を打ちながら、私は窓の外に広がる夕暮れの海に見入っていた。日が沈み、辺りが暗くなるにつれ、風鈴の音色が一層鮮明に聞こえてくる。


食事の片付けに来た仲居さんに、風鈴について尋ねてみた。


「あの風鈴、とても綺麗な音色ですね」


仲居さんは一瞬動きを止め、小声で答えた。


「風鈴の音が聞こえるのですか?」


私が頷くと、彼女は不安そうな表情で部屋を出ていった。その反応に首をかしげたが、私はノートパソコンを開き、小説の構想を練り始めた。


夜も更けた頃、風鈴の音が急に大きくなった。窓の外を見ると、風もないのに風鈴だけが激しく揺れている。そして、その音色の中に、微かに人の声が混じっているような気がした。


「助けて…」


耳を澄ますと、確かに女性の声が聞こえる。しかしそれは風鈴の音と区別がつかないほど、かすかで儚いものだった。


恐る恐る縁側に出てみると、月明かりの下、海岸線に一人の女性が立っているのが見えた。白い浴衣を着た彼女は、こちらを見上げ、手招きをしているようだった。


好奇心に駆られた私は、部屋を出て、旅館の裏手から砂浜へと降りていった。月明かりだけが照らす浜辺には、先ほどの女性の姿はなかった。しかし、波打ち際に一つの風鈴が落ちているのを発見した。


それを拾い上げると、またあの声が聞こえた。


「私を…見つけて…」


声は風鈴の中から発せられているようだった。恐怖を感じながらも、私はその風鈴を持ち帰り、部屋の他の風鈴と並べて吊るした。


すると四つの風鈴が一斉に鳴り始め、部屋の中に奇妙な空気が満ちていった。風鈴の音色は次第に調和し、まるで誰かが歌っているかのようだった。


その夜、私は奇妙な夢を見た。浴衣姿の四人の若い女性が、海辺で踊っている。彼女たちは楽しそうに笑い、波間に足を踏み入れていく。しかし突然、大きな波が彼女たちを飲み込み、悲鳴と共に姿が消えた。


目が覚めると、部屋は朝日で明るく照らされていた。風鈴は静かに揺れ、昨夜の出来事は夢だったのかと思った。


朝食の後、女将に昨夜拾った風鈴のことを話すと、彼女は青ざめた顔で私を見つめた。


「お客様…浜辺に風鈴はありません。四つの風鈴は全て、この部屋にあるはずです」


確かめてみると、四つの風鈴は元の位置に吊るされていた。しかし、私は確かに浜辺で風鈴を拾ったはずだ。


困惑する私に、女将は重い口調で語り始めた。


「実は、この風鈴には悲しい物語があるのです」


彼女の話によれば、昭和初期、蒼海荘に四人の女学生が宿泊した。彼らは夏休みに入ったばかりの女学校の生徒たちで、この部屋に泊まっていた。


ある夜、彼女たちは月明かりの下で海水浴を楽しんでいたが、突然の高波にさらわれてしまった。四人全員が溺死し、遺体は見つからなかったという。


「悲しみに暮れた先代の女将は、彼女たちの魂を慰めるために四つの風鈴を作らせたのです。風鈴の中には、彼女たちの持ち物の一部が封じられていると言われています」


女将の言葉に、私は背筋が凍るような恐怖を感じた。


「そして、七月から八月にかけて、風鈴の音色が特に美しく聞こえる夜には…彼女たちが現れるという言い伝えがあります」


その日の午後、私は海岸を散歩していた。昨夜見た女性の姿を探すように、浜辺を歩き回った。


砂浜の端に達したとき、潮が引いた岩場の間に何か白いものが見えた。近づいてみると、それは古びた写真だった。海水で傷んでいるが、四人の女学生が笑顔で写っている。彼女たちは皆、浴衣姿で、背景には蒼海荘が写っていた。


写真を手に取った瞬間、潮風が強く吹き、写真が手から舞い上がった。それは風に乗って海へと飛んでいき、波間に消えていった。


その夜、風鈴の音はさらに鮮明になった。四つの風鈴から、四人の声が聞こえてくる。彼女たちは私の名前を呼び、「一緒に来て」と囁いていた。


縁側に出ると、浜辺に四人の女性が立っていた。彼女たちは手を振り、海の中へと歩いていく。その後を追うように、私の体が動き出した。


恐怖で震えながらも、私は何かに引っ張られるように部屋を出て、砂浜へと降りていった。月明かりの下、波打ち際まで来ると、海面に四人の顔が浮かび上がるのが見えた。彼女たちは笑顔で手を差し伸べている。


「一緒に…遊びましょう…」


彼女たちの声に誘われるまま、私は一歩、また一歩と海に足を踏み入れた。冷たい波が膝まで、そして腰まで達する。


その時、遠くから誰かが叫ぶ声が聞こえた。


「危ない!戻って!」


振り返ると、浜辺に女将が立っていた。彼女の手には風鈴が握られていた。


「彼女たちの誘いに乗ってはいけません!」


女将の声に我に返った私は、必死に岸へと戻った。全身ずぶ濡れになりながらも、何とか砂浜にたどり着いた。


振り返ると、海面に浮かんでいた四つの顔は、悲しげな表情に変わり、徐々に波の中に沈んでいった。


女将は私を部屋に連れ戻すと、風鈴を外して別の部屋に移してくれた。


「申し訳ありません。これまでも何人かのお客様が、彼女たちに誘われそうになったことがあるのです」


翌朝、私は早々に蒼海荘を後にした。チェックアウト時、女将は小さな風鈴を手渡してくれた。


「これはお守りです。彼女たちから守ってくれるでしょう」


あれから数年が経ったが、私の耳には時々、遠くから風鈴の音色が聞こえてくる。特に夏の夜、潮風が強く吹く時には。そして時々、波の音の中に、若い女性たちの笑い声が混じっているような気がするのだ。


---


三重県鳥羽市の海辺の旅館で1933年(昭和8年)に実際に起きた女学生溺死事故があります。当時の新聞記事によれば、東京の女学校から夏休みを利用して4人の学生が旅行に訪れ、月夜の海水浴中に突然の高波にさらわれて命を落としました。


捜索が行われましたが、遺体は発見されず、事故から数週間後、旅館の女将の夢枕に4人の女学生が立ち、「私たちはここにいる」と告げたという言い伝えがあります。それ以来、女将は彼女たちの魂を慰めるため、4つの風鈴を部屋に吊るすようになりました。


地元の古老の証言によれば、その部屋に宿泊した客が「風鈴の音に誘われて海へ向かおうとした」という不可解な体験を報告する事例が複数あります。1956年には、その部屋に宿泊していた若い女性が真夜中に海に入り、溺れかけているところを発見されるという事件も起きました。


現在も旅館は営業を続けていますが、問題の部屋は倉庫として使われており、宿泊客には開放されていないそうです。しかし、7月から8月にかけての満月の夜には、その部屋から風鈴の音色が聞こえ、浜辺に白い浴衣を着た女性たちの姿が見えるという目撃談が絶えません。2010年には地元のテレビ局が取材を試み、実際に部屋の風鈴が風もないのに鳴り始め、録音機器に若い女性たちの笑い声が記録されるという出来事もありました。

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