蝉時雨の向こう側
蒸し暑い八月の午後、私は祖母の家の掃除を手伝うために田舎町を訪れていた。東京の大学を卒業してから初めての帰省だった。
「雄一、二階の物置も片付けてくれるかい?」
祖母の声に応えて階段を上ると、廊下の奥に昔から使われていない部屋があった。子供の頃から「入っちゃいけない」と言われていた場所だ。鍵は開いていた。
古い襖を開けると、埃が舞い上がった。窓際に置かれた古い鏡台が目に入る。祖母がかつて使っていたものだろう。外からは蝉の声が絶え間なく聞こえていた。
鏡を拭こうと手を伸ばした瞬間、不思議な冷気を感じた。八月とは思えない冷たさだ。そして、鏡に映った自分の後ろに、黒い髪の女性が立っているのが見えた。
振り返ると、そこには誰もいない。
「気のせいだ」と自分に言い聞かせ、掃除を続けた。
その夜、私は祖母の家の二階の客間で眠ることになった。夜中、ふと目が覚めると、廊下を歩く足音が聞こえた。「祖母かな」と思ったが、足音は物置の方へと向かっていった。
翌日、祖母に尋ねた。
「あの部屋、何か特別な理由があって入っちゃいけなかったの?」
祖母は箸を置き、長い沈黙の後に口を開いた。
「あの部屋はね、お前のお母さんの姉の部屋だったんだよ」
私は驚いた。母に姉がいたなんて聞いたことがなかった。
「彼女は夏の終わりに亡くなったんだ。三十年前、ちょうどお盆の頃にね」
祖母の話によると、母の姉・真理子は二十歳の時、婚約者と心中したという。二人は駆け落ちをしようとしていたが、男性の家族に反対され、最後は物置の部屋で命を絶った。
「でもなぜ誰も教えてくれなかったんだ?」
「辛すぎて話せなかったんだよ。特にお前の母さんはね...」
その晩、私は再び真夜中に目を覚ました。今度は女性の泣き声だった。声は物置から聞こえてくる。勇気を出して部屋の前まで行くと、中から囁き声が聞こえた。
「助けて...まだここにいるの...」
震える手で襖を開けると、鏡台の前に黒髪の女性が座っていた。振り向いた顔は、写真で見た叔母・真理子にそっくりだった。しかし、その目は深い悲しみに満ちていた。
「帰れないの...あの人が待っているから...」
翌朝、私は祖母に昨夜のことを話した。祖母は顔色を変え、すぐに地元の寺院の住職を呼んだ。
住職が言うには、真理子の婚約者は実は既婚者で、真理子を騙していたという。真理子は騙されていたことを知り、絶望して自ら命を絶ったのだ。男性は真理子の死後、自分も命を絶った。
「魂が成仏できずにいるのでしょう」と住職は言った。
その日、我々は供養の儀式を行った。儀式の最中、一瞬だけ窓の外に立つ女性と男性の姿が見えた気がした。二人は手を取り合い、蝉時雨の向こう側へと消えていった。
それから物置からの奇妙な音は聞こえなくなった。帰京する前日、祖母は私に古い写真を見せてくれた。そこには笑顔の真理子と、見知らぬ若い男性が写っていた。写真の裏には「最後の夏、1993年8月」と記されていた。
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1990年代初頭に実際に起きた「婚約者騙り心中事件」があります。栃木県の山間部で、既婚者の男性が若い女性に婚約を偽って関係を持ち、最終的に心中に至った事件でした。女性の遺体が発見されたのは彼女の実家の離れの部屋で、死後一週間経っていたとされています。地元では今でも盆の時期になると、その家の周辺で女性の泣き声が聞こえるという噂が残っています。遺族の方々への配慮から詳細は伏せますが、魂の救済を願う地域の供養は今も続いているそうです。