縁日の仮面
八月の暑い夜、私は実家のある福岡県の小さな港町に帰省していた。久々の帰郷で、その夜は地元の夏祭りが開催されていた。祭りの賑わいを懐かしむ気持ちで、夕食後に一人で出かけることにした。
神社の参道には、焼きそばや金魚すくいなどの屋台が並び、懐かしい光景が広がっていた。人混みをかき分けながら歩いていると、参道の端に一軒、人だかりのない屋台が目に入った。「面屋」と書かれた暖簾が下がり、中では老人が一人、何かを制作していた。
興味を引かれて近づくと、そこには様々な表情をした日本の伝統的な面(仮面)が並んでいた。狐や天狗、鬼の面などが並ぶ中、一つだけ異質な面があった。どことなく人間の顔に似ているが、表情のない白い面だ。
「いらっしゃい。何か気に入った面はあるかね?」
老人の声に振り返ると、その手には先ほどの白い面が握られていた。
「この面は...」
「これは『無名の面』。着ける者の顔に似ていくという、珍しい面じゃ。試してみるかね?」
断る理由も思いつかず、私はその面を手に取った。驚くほど軽く、紙のように薄い。老人に促されるまま、私はその面を顔に当ててみた。
一瞬、冷たい風が頬を撫でたような感覚があった。面を下ろすと、老人は静かに微笑んでいた。
「似合っておる。持っていきなさい。代金はいらん」
断りきれずに面を受け取り、祭りを後にした私は、不思議な軽さを感じながら家路についた。
その夜、ふと目が覚めると、部屋の隅に人影が立っていた。驚いて飛び起きると、それは先ほどの白い面が壁に掛けられているだけだった。しかし、月明かりに照らされたその面は、確かに私に向かって微笑んでいるように見えた。
翌朝、面を見ると、なぜか表情が少し変わっていた気がした。前夜よりも表情が豊かになり、私の顔に少し近づいていた。気のせいだろうか。
その日、地元の友人と再会した際、祭りの面屋の話をした。
「面屋?あの祭りにそんな屋台はなかったよ」
友人の言葉に困惑した私は、その夜再び祭りに行ってみた。しかし、前夜あったはずの場所に面屋はなかった。
不安になって家に戻ると、部屋の面はさらに表情が変わっていた。今度は明らかに笑っており、私の顔の特徴がより強く現れていた。
恐る恐る近所の古老を訪ね、面のことを相談した。彼は面を見るなり、顔色を変えた。
「これは『憑き面』だ。昔から伝わる忌まわしい面じゃ。持ち主の魂を少しずつ吸い取り、最後には持ち主の代わりになるという」
古老の話によれば、この地域では明治時代から「夏祭りの面売り」の噂があったという。白い面を買った者は、次第に体調を崩し、人格が変わり、最後には失踪すると言われていた。
「面を燃やすしかない。しかも満月の夜に」
古老のアドバイスに従い、次の満月まで待った。その間、面の表情は日に日に私に似ていき、私自身は次第に体力が衰え、鏡を見る度に顔色が悪くなっていくのを感じた。
満月の夜、裏庭で面を燃やす準備をしていると、突然強い眠気に襲われた。目を開けると、私は部屋にいた。そして壁には...面が掛かっていない。
慌てて鏡を見ると、そこには私の顔ではなく、白い面のような表情のない顔が映っていた。恐怖で叫ぼうとしたが、声は出ない。
そして気づいた。私は既に面になっていたのだ。部屋の外からは誰かの足音が聞こえる。ドアが開き、私の姿をした「何か」が入ってきた。
「これで完成だ」
それは私の声で言った。そして私の体で歩き、私の手で面―今の私―を取り、袋に入れた。
「次の祭りで、また誰かに巡り会おう」
その言葉を最後に、意識は闇に沈んでいった。
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明治時代から九州地方の漁村で語り継がれてきた「面売りの怪」と呼ばれる怪談です。福岡県の漁村・志賀島で1897年(明治30年)に起きた連続失踪事件が発端となっています。
当時の新聞記事によれば、その年の夏祭りの後、村の若者3人が相次いで行方不明になりました。目撃者の証言では、彼らは祭りの夜に「白い面を売る老人」から面を買い求めていたとされています。
失踪の約1ヶ月前から、彼らは「自分に似た顔の夢を見る」「鏡を見るのが怖い」などと周囲に漏らしていました。最後に姿を見られた時には、「表情がなく、別人のよう」だったと証言されています。
この事件は未解決のまま迷宮入りしましたが、以降も九州各地の夏祭りでは「面売りの老人」の目撃談が断続的に報告されています。特に1970年代には福岡市近郊で5件の類似失踪事件が発生し、いずれも夏祭りでの白い面の購入が関連していると地元警察は非公式に調査していました。
現在、九州歴史博物館には「憑き面」と呼ばれる白い面が保管されています。これは1954年に失踪した男性の部屋から発見されたもので、定期的に表情が変化するという噂から、強化ガラスのケースに厳重に保管されています。地元の民俗学者によれば、この面は「無名面」と呼ばれる古代からの呪物であり、「持ち主と入れ替わる力を持つ」と伝えられているそうです。
今でも九州の一部地域では、夏祭りで知らない屋台で面を買わないよう、子供たちに注意が促されています。