廃校の保健室
梅雨が明けた七月下旬、私は仕事の取材で故郷の岩手県の山村を訪れていた。東京の出版社で働く私は、「失われゆく日本の学校建築」という特集の撮影のため、十五年前に閉校した母校の小学校を訪ねたのだ。
緑深い山々に囲まれた廃校は、思ったより良い状態で残っていた。村の古老から鍵を借り、校舎に足を踏み入れると、懐かしい木の匂いと埃の香りが混ざった空気が私を迎えた。
「あまり遅くまでは残らないでくださいね。日が落ちると危ないですから」
古老の言葉を軽く受け流し、私はカメラを手に校内を歩き始めた。教室、職員室、図書室...どこも時が止まったままだった。壁には色褪せた卒業写真が掛かり、黒板には消し忘れたチョークの跡が残る。
撮影を続けていると、ふと、保健室の存在を思い出した。子供の頃、よく熱を出して休んだあの部屋だ。廊下の突き当たり、日当たりの良い場所にあった。
保健室のドアを開けると、中は半分だけ日光が差し込み、残りは影に覆われていた。ベッドやカーテン、薬品棚など、すべてが当時のまま。窓際には一輪の朝顔が花瓶に挿されていた。
「おかしいな...」
誰かが最近ここに来た形跡がある。花は新鮮で、水も澄んでいる。埃を被った机の上に、一冊のノートが開かれていた。
「保健日誌」
昔、保健の先生が児童の体調を記録していたノートだ。最後の記録は閉校前日のものであるはずだが、その後のページにも文字が続いていた。しかも昨日の日付で。
「熱っぽい子供が来た。冷やしてあげた。でも足りない。もっと涼しくしてあげたい」
筆跡は子供のようなぎこちないものだった。
不思議に思いながらも撮影を続けていると、廊下から足音が聞こえた。誰かが水を含んだ雑巾で床を拭く音だ。
「すみません、どなたかいますか?」
返事はない。代わりに、水を絞る音が近づいてきた。
「村の方ですか?」
保健室のドアがゆっくりと開く。しかし、そこには誰もいなかった。ただ廊下に水溜りがあるだけだ。
気味が悪くなり、そろそろ引き上げようと思った時だった。背後から、かすれた女性の声が聞こえた。
「熱、ある?」
振り返ると、保健室のベッドに、白衣を着た女性が座っていた。逆光で顔はよく見えない。
「え...いいえ、取材で...」
「暑いでしょう?休んでいきなさい」
震える足で後ずさりしながら、私は断った。女性はゆっくりと立ち上がった。
「みんな、帰ってしまったのに...」
その声には深い悲しみが混じっていた。一歩近づくと、女性の姿がはっきり見えた。青白い顔に、黒く窪んだ目。白衣からは水が滴り落ちている。
「先生は...いつまでもここにいます...」
恐怖で動けなくなった私に、女性は冷たい手を伸ばした。その瞬間、校内放送のチャイムが鳴り響いた。
「下校時間です」
機械的な声とともに、チャイムが終わると、女性の姿は消えていた。床には水溜りだけが残されていた。
震える足で校舎を飛び出し、村の古老の家に駆け込んだ私は、保健室で見た女性のことを話した。
古老は深いため息をついた。
「やはり見たか...佐藤先生を」
古老の話によれば、この学校の最後の保健の先生・佐藤さんは、閉校が決まった夏、保健室で亡くなったという。猛暑の中、体調を崩した児童のために最後まで残っていたところ、自らが熱中症で倒れたのだ。発見されたのは三日後、すでに息絶えた後だった。
「先生は『子供たちが帰るまで待つ』と言っていたそうだ。だから今も...」
その夜、宿に戻った私のスマホに、撮影した写真が表示された。保健室の写真には、窓際に立つ白衣姿の女性がはっきりと写っていた。その腕には、体温計が握られていた。
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2000年代初頭に岩手県の山間部で実際に起きた「保健室の怪」と呼ばれる不可解な出来事です。過疎化により2006年に閉校した小学校で、地元紙の取材中にカメラマンが「白衣の女性」を目撃したと報告したのが始まりでした。
当時の地方新聞の記事によれば、この小学校の最後の保健教諭・K先生(当時58歳)は、閉校の約2ヶ月前の2006年7月、猛暑日に校舎に一人残っていた際に熱中症で倒れ、発見が遅れたため亡くなっていました。
閉校後、校舎の管理のために訪れた元教職員や地元住民から「保健室から水を絞る音が聞こえる」「誰もいないはずの保健室に新鮮な朝顔が飾られている」といった報告が相次ぎました。特に夏場になると現象が活発化するといいます。
2012年には地元の大学生グループが廃校を調査した際、保健室で撮影した写真に「白衣の人影」が写り込んでいたことが話題になりました。画像分析の専門家も「合成や光の反射ではない」と証言しています。
地元の教育委員会は2015年、老朽化した校舎を取り壊す計画を立てましたが、工事の初日、作業員全員が原因不明の体調不良を訴え、工事は中止されました。現在も校舎はそのまま残され、毎年7月になると保健室の窓に朝顔の花が咲くといわれています。地域の人々は「K先生が今も子供たちの健康を見守っている」と信じ、校舎の保存を望む声も少なくありません。