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怖い話  作者: 健二
★★★
12/17

「最後尾のランプが消えるとき」

      

 四月二十四日の深夜一時、私は尼崎車両基地の構内踏切でマイクを構えていた。鉄道騒音を研究するコンサル会社に勤め、翌日から走る新型試験列車「W07」の音源を採取するのが任務だ。だが本心では、明けて二十五日――JR福知山線脱線事故から十九年目の同刻、事故現場を走り抜ける車輪の音を録りたかった。西日本旅客鉄道は「慰霊走行ではない」と言うが、回送ダイヤの時刻は当時の快速電車5418Mとほぼ同じだった。


 午前一時十二分、構内に場内信号の青が灯り、二両編成のW07がゆっくりと動き出す。私はLCDレベルメータを確認しながら、イヤホンを耳に押し当てた。

 ――ゴウ、ゴッ、ゴッ……。

 重低音は思いのほか滑らかで、空気ばねの吐息まで拾える。突然、耳の奥で「カン、カン、カン」と乾いた衝撃音が混じった。踏切警報機の音に似ていたが、構内踏切は遮断桿ごと撤去されている。波形を拡大すると、音は一定間隔ではなく、モールス符号になっていた。私は胸騒ぎを覚え、ダッシュボードに入れていた旧式のパルス→文字変換ソフトにかけた。


  … … … - … … - (SOS)

  … - … - (5)

  … … … … - … (4)

  ·-··· …- ···- (18M)


 5418M。二〇〇五年四月二十五日、カーブで107人が死亡した当該列車の列番。偶然にしては悪質すぎる。 


 列車は私のすぐ横をかすめ、ヘッドライトがマイクの風防を白く照らした。最後尾の赤ランプが視界を通り過ぎた瞬間、イヤホンに別の音が重なった。くぐもったブレーキの悲鳴。「くっそ、オーバーです!」――若い男の声が掠れて入る。事故調査報告書で運転士の最期の無線と推定された「オーバーラン」の叫びと、声色があまりに似ていた。


 マイクを畳み、工場棟のモニタリング室へ駆け込む。中ではJRの技術員が9台のカメラ映像を確認していたが、誰も異常を口にしない。私は勇気を振り絞ってイヤホンを差し出し、再生ボタンを押した。ところが、あのモールスも叫び声も消え、風切り音だけが延々と続く。

 技術員の一人が苦笑いした。「気のせいじゃないですか? 明日が“命日”なんで、神経も高ぶりますし」 


 午前三時。私は独断で、事故現場のカーブ(三菱電機ビル跡地向かい)へ先回りした。連絡橋の下でレコーダを構え、ウィンドシールド越しに線路を見据える。闇の中、赤い信号が一点だけ灯る光景は、新聞写真で見た当夜の現場に酷似している。

 やがてレールが小さく鳴動し、W07のヘッドライトが近づいて来た。私は録音を開始――した瞬間、別の列車の走行音が重なった。列車同士が交差するなどダイヤ上あり得ない。ミキサーのピークランプが真っ赤に振り切れ、警報ブザーが鳴る。耳を塞いでも、聞こえるのは「あ、ぶつかる!」という女性の悲鳴。そして、金属の裂ける轟音。私は咄嗟に地面へ伏せたが、何もぶつかって来ない。


 顔を上げると、W07は静かに通り過ぎ、脱線も衝突も起きていない。ただ一点、最後尾の赤ランプだけが消えていた。尾灯の消灯は厳禁のはずだ。私は列車を追い、先の塚口信号場で停まった車両へ駆けつけた。運転士に尋ねると、尾灯は自動で消える構造などないと言う。彼が後部運転台のスイッチを確かめようとした刹那、車内のLED表示が真っ黒になり、一行だけ赤字が浮かび上がった。


 「<JR宝塚線 快速5418M 116km/h>」


 116km/hは、脱線時に推定された速度。私は足がすくみ、運転士も言葉を失った。そのとき車内インターホンが突如鳴り、無人の客室で女児の声が響く。

 「ママ、電車が空とんでるよ」

 事故当時、先頭車2列目で亡くなった小学一年生の女の子が、ホームビデオで列車好きの父親に語った最後の言葉と同じだった、と後日私は遺族による手記で知った。 


 運転士が緊急遮断ボタンを押すと、すべての照明が落ち、スマホの液晶だけが暗闇を照らした。私は手探りでカメラを構え、録画を始める。レンズ越しに浮かんだのは、蛍光灯の反射などではなく、座席のヘッドレストに規則正しい「ひっかき傷」。点検したばかりの新車に、子どもの手のような小さな爪痕が無数についている。 


 やがて車両基地から救援のライトカーが駆け付け、電源が復旧した。が、不思議なことに尾灯だけは点かないまま。整備士は「基板ごと焦げている」と訝しんだ。新品のLEDが一晩で焼損するなど通常ありえない。 


 夜明け。私は会社へ戻り、録音データを波形編集ソフトで開いた。すると深夜一時十二分以降の全トラックに、二十秒おきのスパイクノイズが現れる。周波数解析にかけると、ピーク値は「1620Hz」。JRが非常通報受信機に割り当てる音声帯域と一致した。つまり、私たちの録音機は列車の非常無線を受信していたことになる。

 しかし事故報告によれば、5418Mは非常通報装置の操作を一切できないまま脱線した。実際、国交省が回収したレコーダにも、その帯域の記録はない。「存在しない非常無線」が、十九年後の深夜、同じ線路上で再生された――そうしか考えられなかった。


 データをエンコードしている最中、社内モニターが緊急地震速報の試験信号を誤送出した。社員がざわめく横で、私は数字を二度見した。「2024年4月25日 午前9時18分」。5418Mが福知山線に入線した、まさにその分単位の時刻だ。誤報は一分で取消しになったが、私の胸は凍り付いていた。


 追い打ちをかけるように、私のスマホがバイブした。差出人不明の音声ファイルが届き、再生するとレールジョイントのリズムに乗せてモールスが流れる。


  …-…-…- / TURN BACK / …-…-…-


 「引き返せ」。あの夜、最後尾のランプが消えた瞬間から、列車は過去へ滑り込みかけていたのではないか。もし私が録音を続け、車内で夜を明かしていたら、日の出とともに二〇〇五年四月二十五日のカーブへ辿り着き、帰って来られなかった気がする。


 午後、尾灯の基板は新しいものに交換され、W07は何事もなく本線を走り始めた。だが私はもう列車に乗る勇気がない。最後尾のランプがふと暗くなったら、次に点く場所が現在の世界かどうか、保証はないのだから。


                      (了)


――補遺――

物語はフィクションですが、登場する実在の出来事・要素は以下の通りです。

1)2005年4月25日 JR福知山線脱線事故(107名死亡)。

2)事故当該列車の列番「5418M」、推定速度116km/h、非常通報装置の未作動。

3)事故現場跡地に残るカーブと追悼施設(祈りの杜)。

4)JR西日本の回送列車が毎年ほぼ同時刻に通過するという鉄道ファンの観測。

5)モールス信号 SOS が鉄道事故で実際に遺された国鉄三河島事故(1962)の逸話。

6)鉄道車両の尾灯消灯は鉄道営業法で禁じられている。


 現場を通る夜行列車の窓に、もし赤ランプの消えた最後尾が映ったら――あなたの乗る列車も、線路の年代を跨いでしまっているのかもしれません。

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