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怖い話  作者: 健二
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井戸の囁き


猛暑が続く八月上旬、私は祖母の家の片付けのために京都の郊外にある古い町家を訪れていた。祖母は先月、九十二歳で他界した。私が最後に訪れたのは十年以上前のことで、子供の頃の夏休みに滞在した記憶しかなかった。


「懐かしいね」


父は長い廊下を歩きながら言った。「お前が小さい頃、よくここで遊んでいたよな」


町家は江戸時代末期に建てられたという古い建物で、廊下や縁側が入り組み、奥には小さな中庭がある。そして中庭の隅には、使われなくなった古い井戸が残っていた。


「あの井戸は、まだあるんだ」


子供の頃、祖母は「井戸には近づかないように」と厳しく言い聞かせていた。鉄の蓋で固く閉ざされていたが、それでも不思議と恐ろしさを感じる場所だった。


その日の夕方、荷物の整理を一段落させた私は、中庭で一息つくことにした。蒸し暑い空気の中、古びた縁側に座って缶ビールを飲んでいると、微かな水の音が聞こえてきた。


「雨かな?」


空を見上げると、まだ日は高く、雲一つない青空が広がっていた。音は井戸の方から聞こえている。近づいてみると、蓋の隙間から水音と共に、かすかな声が聞こえた。


「...かえして...」


耳を澄ますと、確かに誰かが話している。女性の声だろうか。


「誰かいるの?」


返事はない。代わりに水がゆっくりと揺れる音だけが続く。


夕食時、父にそのことを話すと、彼は箸を置いて深刻な表情になった。


「あの井戸のことは、あまり詮索しない方がいい」


「何かあったの?」


父は長い沈黙の後、重い口調で語り始めた。


「昭和三十年代、この家に住んでいた遠い親戚の娘さんが、井戸に落ちて亡くなったんだ」


その話によれば、十七歳だった少女は夏の暑い日、井戸で水を汲もうとして誤って転落したという。発見されたのは三日後のことだった。


「それ以来、この家では井戸の水を使わなくなった。水道が引かれた後は、完全に封鎖されている」


その夜、私は蒸し暑さのせいで寝付けず、窓を開けて外の空気を入れた。すると、再び水の音と共に、はっきりとした女性の声が聞こえてきた。


「かえして...わたしの...」


背筋が寒くなる思いで耳を澄ますと、声は次第に大きくなっていった。


「かえして...かえして...」


恐る恐る中庭に出ると、月明かりに照らされた井戸の蓋が、わずかに開いていた。恐怖を押し殺して近づくと、蓋の隙間から冷たい風が吹き上げてきた。そして、水面に映る一つの顔が見えた。


長い黒髪を持つ若い女性の顔。肌は青白く、目は大きく見開かれている。しかし、その顔には何かが足りなかった。そう、口がなかったのだ。


恐怖で叫び声も出ないまま、私は家に逃げ帰った。震える手で父を起こし、見たものを話した。


父は顔色を変えて言った。「じっとしていろ」


彼は物置から古い箱を取り出し、中から一枚の写真と古い手帳を取り出した。写真には井戸の前で微笑む若い女性が写っていた。


「これが遠縁の雪子さんだ。実は...彼女が亡くなったのは事故ではないと言われている」


父の話によれば、雪子は密かに村の青年と恋仲になっていたが、彼には既に婚約者がいた。関係を知られた雪子は、妊娠していることを青年に告げたという。


「その夜、二人は井戸の前で口論になった。翌朝、雪子は井戸の中で発見された。公式には事故とされたが、村では...」


その時、外から大きな水音がした。中庭に駆け出すと、井戸の蓋が完全に開いており、中から水が溢れ出していた。


そして井戸の縁に、ずぶ濡れの姿で女性が座っていた。


月明かりに照らされたその姿は、写真の雪子にそっくりだった。しかし、その口は存在せず、代わりに黒い穴が開いていた。


「わたしの...こどもを...かえして...」


声は口からではなく、水面から響いてくるようだった。


女性はゆっくりと立ち上がり、私たちに向かって歩き始めた。足跡には黒い水が残る。


その時、父が決然とした様子で前に出た。


「もういい、雪子さん。あなたの子供はもう安らかに眠っています」


父は古い手帳を開き、乾いた何かを取り出した。それは小さな布に包まれた何かだった。


「これを井戸に返します。だから、もう恨むのはやめてください」


父は井戸に近づき、包みを水の中に落とした。すると、女性の姿はゆっくりと霧のように薄れ、最後には井戸の中に消えていった。水は静かになり、蓋は再び閉じた。


翌朝、父に昨夜のことを尋ねると、彼は静かに答えた。


「あの包みは、雪子さんの髪の毛と爪だ。彼女が亡くなった後、青年が持っていたものを、祖母が預かっていたんだ」


父によれば、青年は雪子の死後、彼女の体の一部を「子供の代わり」として持っていたという。それが彼女の魂を地上に縛り付けていたのだ。


「だから祖母は井戸に近づくなと言っていたんだな」


その日、私たちは地元の寺院の住職を呼び、井戸の供養をしてもらった。以来、井戸からの声は聞こえなくなったという。


---


1958年(昭和33年)に京都府の山間部で実際に起きた「井戸縁事件」と呼ばれる出来事です。当時の地方新聞によれば、古い町家に住んでいた17歳の少女が井戸に転落して亡くなり、事故として処理されました。


しかし、事件から数か月後、少女の元恋人が自殺し、残された遺書から二人の間に秘密の関係があったこと、少女が妊娠していたことが明らかになりました。遺書には「雪子の声が毎晩聞こえる」と書かれていたといいます。


特に不可解だったのは、警察の検死報告書に「口唇部に特徴的な裂傷あり」と記録されていたことです。この傷がどのようにしてついたのかは謎のままでした。


1960年代、この家を訪れた親戚の子供が「井戸から女の人の声が聞こえる」と言い出したことから、地元では「口のない女」の噂が広まりました。1970年には、家主の依頼で行われた井戸の浄化作業中に、井戸の底から古い布に包まれた人間の髪と爪が発見されています。


現在、この町家は取り壊されていますが、跡地に建てられた集合住宅の住民からも、夏になると水の音と女性の声が聞こえるという証言が絶えないそうです。京都民俗学研究会の記録によれば、この一帯では今でも「井戸の雪子さん」の話が語り継がれており、特に8月15日前後の夜には井戸や水場に近づかないという言い伝えが残っています。

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