八月十二日の蝉が止むとき
八月十一日深夜、群馬県上野村の空は星で滲んでいた。
大学の映像研究会に所属する私は、同期の片桐健司と後輩の篠原柚季を連れ、御巣鷹山へ向かっていた。目的は「昭和を撮る」シリーズの最終回――日本航空123便墜落現場を夜明け前に撮影し、追悼ドキュメンタリーのラストカットに使うことだった。
午前二時三十分。車を「御巣鷹の尾根慰霊登山口」に停め、ヘッドライトを消すと、夏なのに山肌だけが凍ったように冷たい。鳥居をくぐると、蝉の声が突然途切れ、柚季が肩をすくめる。
「風、ないのに寒いですね……」
登山道は献花と千羽鶴に縁取られ、ガイドロープが淡く反射している。道の途中に落ちていたのは、航空機の座席についていた安全ベルトのバックル。錆びは新しい傷のように赤茶けていた。
「拾うなよ、持ち帰るなよ」
健司が念を押す。だがカメラを構える私の背で、バックルが地面を叩く金属音がした。振り返ったが何もない。ただ、ロープが風もないのに揺れていた。
午前四時。慰霊の園に着くと、モニュメントの金属板が夜露で鈍く光り、影が複数にズレて見えた。
「ここ、真っ暗で撮れないな」
私はドローンを飛ばそうとしたが、なぜかGPSが取得できない。
柚季が手持ちのレコーダーを回し始めた瞬間、ヘッドホンから赤ん坊のような泣き声が漏れた。
「錯覚でしょ」
健司が笑い、モニュメントに手を当てた。その時、山の斜面からパキンと枝が折れる音。私たちはライトを向けた。朽ちた機体の一部が、崖の土から半分だけ顔を出していた。そこに、誰かが立っている――白いシャツ、裸足。だがライトが当たるまでの一瞬で形は消えた。
夜明けまであと一時間。
健司が無理を言い、墜落機の尾翼が引っ掛かったという樹林の奥へ踏み込んだ。道なき急斜面を登ると、空気が重く、肺が膨らまなくなる。耳の奥で低い地鳴りが続き、頭が揺れた。やがて腐食したアルミ片が転がる開けた場所に出た。
柚季が声を絞る。
「録音、ずっと“プレス信号”みたいなビープが入ってます」
そのとき、健司が茂みの奥を指差した。金属製の機内ドアの一部が、月光を受けて立っている。窓には私たちの姿が映り、その後ろに知らない乗客らしき影がびっしり並んでいた。
「戻るぞ」
私が言うと、健司はシャッターを切り続けながら後退した。足元で枝が裂け、彼は斜面を滑落した。地面に叩きつけられる音。そのあと嘘のように静かになった。
私は柚季と駆け寄った。だがそこには、健司が持っていたカメラと片方のスニーカーだけ。血痕も足跡もない。斜面は、墜落の衝撃でえぐられた土色の窪みが口を開けているのみ。
柚季のスマホが突然振動した。画面には「カタギリケンジ」からの着信。圏外の山奥のはずなのに。
スピーカーから漏れたのは、金属が軋むようなノイズと、飛行機の非常灯が点く“チン”という澄んだ音。最後に子どもの声で、
――まま あつい
と囁いて途切れた。
夜が明けきる前に、私たちは慰霊の園に戻った。ロープに沿って歩くが、同じ献花台が三度現れ、何度も同じ場所を通っている感覚に陥った。出口にたどり着けない。
ふと、柚季が息をのみ、私の背後を指差した。振り返ると、夜明けの靄の中に機内の座席が整列している。酸素マスクが垂れ、乗客たちが頭を垂れたまま私たちを取り囲む。
最前列の男性の顔だけが潰れたガラスのように歪み、口が開いた。
――まだ 午前6時56分じゃない
言い終わる前に、全員が席ごと闇へ崩れ落ち、代わりに大量の座席番号タグが舞い上がった。それらが地面に落ちる音は、不時着警報の短い電子音に聞こえた。
次の瞬間、私と柚季は登山口の鳥居前に立っていた。太陽は完全に昇り、蝉の合唱が耳を裂く。健司の姿はない。持っていたはずのカメラもロープマイクも、背負っていたライトスタンドさえ失われていた。
車のサイドミラーだけが割れ、助手席には折れた安全ベルトのバックルが置かれていた。血のような赤錆が乾いていた。
警察・消防・地元ボランティアによる捜索が始まったが、健司は見つからなかった。
私のハードディスクには、一枚だけJPEGが残っている。撮影者の情報ナンバーは健司のカメラのもの。画像には夜明け前の御巣鷹の尾根、その中央に背を向けた健司が立っている。彼の肩越しに、薄い灰色の機体が雲を割って落下してくるのが写っていた。タイムスタンプは「1985/08/12 18:55」。墜落の三分前。
――今でも、毎年八月十二日になるとスマホに非通知の留守電が入る。
再生すると、酸素マスクが揺れる音と、とぎれとぎれの国際線機長の声――「メイデイ」だけが繰り返される。
御巣鷹山の木々は、まだあの日の乗客を抱えたまま夏を越している。私の誰かがそこへ戻るまで、標高1565メートルの空は、あの時間で凍りついたままなのだ。
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【実際にあったできごと】
・1985年8月12日18時56分、羽田発伊丹行き日本航空123便が群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落。乗員乗客524名中4名のみ生存、史上最多の520名が犠牲となった。
・地元住民と救助隊員の証言として、「墜落翌日の山中で赤ん坊の泣き声や“助けて”という声を聞いた」「捜索中に腕を掴まれた感触があった」などが複数の書籍・報告書に記録されている。
・1995年以降、慰霊登山者の中から「夜になると時計が18:56で止まる」「ヘッドセットに機内アナウンスが割り込む」などの体験談が相次ぎ、毎年8月前後に地元警察へ相談が寄せられている。
・2010年8月、遺族が供えた機体部品の一部が紛失。捜索の結果、墜落地点から離れた山道で発見されたが、遺族の名前が刻まれたタグだけが消えていた。
深い山は今も、夏になると当時の空と同じ温度で人々を迎え入れると言われている。