八月、足尾銅山の空気は緑に腐る
八月二十三日、群馬・栃木の県境はフェーン現象で気温三十七度。
私はケーブル局のドキュメンタリー班で、後輩ディレクターの水島裕也、音声の小柴千尋とともに旧足尾銅山へ向かった。
目的は「日本の産業遺構を歩く」夏特番のロケハン。外は茹だる暑さなのに、通洞坑の入口に立つと、肺に吸い込んだ空気が一瞬で鉛の味に変わった。
坑内は観光用の照明が午前五時で落ち、私たちは許可を得て夜間に入坑した。ライトをつけると、壁の緑青が生き物の皮膚のように光る。まばらに残るレールの上で、汗が蒸気になり靴底を滑らせた。
「午前零時に天窓シャフトを撮れば、月光が鉱石を反射して青く光るんです」
水島が嬉々として進む。彼は“バズるカット”に貪欲だ。
二百メートルほど進むと観光ルートの柵が途切れ、奥へは立入禁止の立札。だが水島が鎖を持ち上げた。
「未公開エリアを撮れば独占ですよ、先輩」
私は逡巡したが、千尋まで「音を拾いたい」と同行を望む。鎖を跨いだ瞬間、坑道の温度が二度下がった。蝉の声が切れ、耳の奥で遠い金属音――カン、カン――が反響する。
十数メートル奥、壁に炭坑夫の殉職者慰霊碑があるはずだ、と私は聞いていた。だがライトが照らしたのは、黒いススと銅緑の斑点で読めなくなった看板だけ。その下に、誰かのヘルメットと手袋。
ヘルメットの中で何かが蠢いている。覗くと白く細い脚を持つヤスデがぎっしり詰まり、ヘッドライトの電線に絡みついていた。
「戻ろう」
私は言った。だが水島が一歩だけ前に出た瞬間、坑道の闇全体がざわついた。空気が膨らみ、耳鳴りに続いて地面が揺れる――落盤かと思った。だが壁が崩れたのではなく、中から“押し返された”ように煉瓦が盛り上がり、隙間に黒い液体が滲む。
千尋のブームマイクが高周波を拾い、ヘッドホンから「まだ 掘るか」と掠れた声が漏れた。
ライトの芯で凝視すると、煉瓦の間から人の顔が浮いた。皮膚は銅の酸化で緑に染まり、瞳孔の位置に空洞だけがある。口元がゆっくり開き、砂利と緑青の粉が吐き出された。
「逃げろ!」
私たちは踵を返したが、来たはずの道が暗黒に沈み、足音を追うようにレールがゴン、ゴン、と鳴った。背後で水島が悲鳴を上げる。振り向くと、彼は膝まで床に埋まり、緑青まみれの腕に掴まれている。
私は腕を掴み返し引いた。千尋もライトで照らすが、床は鉱石が溶けた泥のように柔らかく、水島の体を呑み込んでいく。
「カメラを離せ!」
叫んだが、水島は笑っていた。顔が青白く光り、ピントの合わない目で私たちを見上げ、口だけが動く。
――掘れ…もっと…
最後に閃光。水島のハンディカムが自動でストロボを焚いた。次の瞬間、彼は泥に消え、音も震動も止んだ。
暗闇だけが残った坑内で、千尋が泣きながら録音停止を連打した。数字は止まらず、逆に時間軸がマイナスへ巻き戻る。-00:10、-00:20…。ヘッドホンからは古い蒸気機関車のブレーキ音と、号令をかける現場監督らしき怒号。「死ぬな、まだ三尺掘れ!」
私は千尋を抱えて走った。出口の鎖を越えた途端、蝉が一斉に鳴き始め、外気が熱い雨のように降りかかった。振り返ると坑口は闇を湛えたまま無音。
翌朝、警察と管理事務所に通報したが、水島の足跡も機材も見つからず、観光ルートの鎖は固く鍵が掛かったままだったという。
私は残ったSDカードを確認した。最後のフレームには、水島を囲む十数人の坑夫が写っていた。額に鉱灯を付け、頬はこけ、全員が私を睨んでいる。ライトの光芒で浮かび上がった彼らのヘルメットには、白墨で同じ数字が書かれていた。
“八月十二日”
それは足尾銅山最大の坑内爆発事故(1907年8月12日)の日付だった。
夜。編集室の換気口から鉱臭い冷気が吹き、PCが勝手に再生を始める。画面には坑道を延々と進む一人称映像。足音は三つ。私と千尋と――誰かが後ろについている。尺は毎夜、数秒ずつ長くなる。
最後にライトが振り返り、緑に腐った顔がレンズを塞ぐたび、再生が止まる。
水島はまだ撮り続けている。出口のない夏を、青い闇の中で。
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【実際にあったできごと】
・足尾銅山(栃木県日光市)は江戸期開坑、明治以降は日本最大級の銅産出量を誇ったが、坑内事故も多発。
・1907年8月12日、第三通洞坑で爆薬庫が爆発。死者・行方不明30名、重軽傷70名(足尾町史)。
・同銅山は1910年代以降、ガス爆発・落盤事故を含め夏季に死傷事故が集中した記録が残る。
・閉山後の1990年代から、夜間無断侵入した若者が行方不明になり、カメラのみ坑内で発見された例が2件、地元警察に届け出がある。
・観光坑道スタッフの報告書(2017年8月)には「終業後の無人坑内でレールハンマーの打撃音を聞いた」「監視カメラに作業服姿の人影が映り、数秒で霧散した」と記載。
現在も夏場は気温差による霧が発生しやすく、見学時間外の立入禁止が徹底されている。