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怖い話  作者: 健二
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八月、軍艦島は波より先に呻く


八月二十七日、長崎港は夜九時を過ぎても熱帯夜の湿気を吐いていた。

私はケーブル局の特番班で、カメラマンの藤井奏斗、音声の嶺岸杏奈とともに、端島――通称・軍艦島へ向かう最後の観光船に乗った。日帰り客を下ろしたあと、船長と口利きし、取材名目で一晩だけ島に残る許可を得たのだ。


コンクリートの桟橋に降り立つと、潮とコールタールが腐った匂いが鼻腔を刺す。セミは鳴かず、波音すらコンクリ壁に吸われて歪んだ低音に変わる。

「落下物に注意しろよ」

奏斗が4Kカメラを持ち上げ、崩れかけの高層住宅「30号棟」を見上げた。窓という窓が黒い穴で、七階あたりの闇が呼吸するように膨張している。


午前零時。月明かりを頼りに第三竪坑へ向かう。坑口は鉄柵で封鎖されているが、柵の一部が折れていた。杏奈がブームマイクを差し入れると、すぐヘッドホンに金属のドリル音が混ざった。

「現役の掘削音みたい……」

島は1974年に閉山し、誰も掘っていないはずだ。私は柵をくぐり、湿った斜坑を少しだけ下った。壁面は汗のような真水を垂らし、遠くで“ゴン、ゴン”とハンマーが岩を打つ響きが律動を刻む。


突然、杏奈が叫んだ。「奏斗がいない!」

振り返ると、わずか十歩後方の闇が濃く沈み、カメラの赤いRECランプだけが浮いている。私は駆け寄り、ライトを振った。光に照らされたのはコールタールまみれの人影――鉱夫の制服とヘルメット、だが顔は真っ黒な空洞。その腕が奏斗のカメラを抱え込み、ゆっくり壁の中へ溶けていく。


「離せ!」

私は無我夢中でストロボを焚いた。閃光で炙られた影は砂のように崩れ、カメラだけが床を転げた。次の瞬間、坑内全体がうねり、背後の出口が遥か後方へ遠ざかったように見えた。


逃げる途中、ヘッドホンから甲高い汽笛が鳴り、杏奈が耳を塞いで蹲った。録音メーターは振り切れ、「2906」と数字が瞬いた。

「何の数字だ?」

「死者数……じゃないよね」

私は杏奈を抱え、斜坑を這うように上った。外に出た瞬間、陸のはずの地面がぐらりと傾き、海鳴りが島全体を震わせた。


振り返ると、30号棟の各階に灯りがともる。電力などないはずなのに、裸電球の黄色い光が縦一列に点き、バルコニーに作業服姿の人影がびっしり並んだ。全員が私たちを見下ろし、ヘルメットのランプだけが同時に点灯する。その光列がゆっくりと首を振り、まるで「下へ来い」と誘うようだった。


桟橋へ走る途中、奏斗のカメラが振動し、勝手に再生を始めた。映像には、私と杏奈が斜坑を上る背中が映り、続いて足音一つ分の間隔を置いて追う第三の目線。レンズ越し、私の首筋に黒い手形が浮かぶ。そこまで映して映像は途切れ、ファイル名は自動で“0823_2906”に書き換わっていた。


夜明けと同時に迎えの船が来た。乗り込む直前、背後でコンクリの崩落音が響き、振り向くと30号棟は窓も灯りも元の廃墟に戻っていた。ただ、海風が途切れた一瞬、島中の建物の空洞が同時に呻いた。


長崎へ戻り、病院で受診すると私の首の手形は火傷に近い症状と診断。杏奈は高音域の聴覚を失い、耳奥で汽笛が鳴り続けているという。奏斗のカメラ内にあった全映像は一夜で破損し、復旧ソフトで救えたのは0.59秒のファイルのみ。画面いっぱいの鉱夫の顔がレンズを覗き込み、数を数えていた。


「二千九百七、二千九百八……」


島は、掘るのをやめた人間の数をまだ数え続けている。


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【実際にあったできごと】

・端島(軍艦島)は1890年に三菱が買収し海底炭鉱を開坑。最盛期の1960年には5,300人以上が居住し、人口密度は当時の東京の9倍を超えた。

・操業期間中、落盤・水没・ガス爆発などの死亡事故が頻発した。長崎県公文書館の資料では1907年~1974年の公式殉職者数は1,122名。地元紙には「統計外の行方不明者を含めると2,900名を超える」とする元鉱員の証言記事(1975年8月23日付)が残る。

・閉山翌年の1975年、無断で島に上陸した大学生グループのうち1名が行方不明となり、救助要請時に「坑道からドリル音がした」と通報記録に記載。遺留品はカメラのみで、内部のフィルムは感光していた。

・2013年8月、夜間ツアーの非公式企画で島に残った映像クリエイターが翌朝失踪。同行者の機材には「階ごとに灯る高層住宅」が数秒だけ映り込んでいたが、データは警察引き渡し後に消失した。

これらの事例は現在も「端島では人数を数える声が夜に聞こえる」という噂とともに、立入禁止区域の厳格化に繋がっている。

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