「深度4500メートルの灯(ともしび)」
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八丈島南方二百海里、海上保安庁の巡視船「しきしま」を母船に、私は遠隔無人探査機〈URED‐Ⅱ〉の操縦席に座った。民間海洋調査会社ブルーアークのSEとして雇われて三年、きょうの任務は「原因不明の大量魚死を起こした海底熱水孔を撮影せよ」という環境省からの再委託案件だった。
だが本当の狙いは別にある――二〇二三年六月、インド洋で行方不明になった観光用潜水艇〈タイタン〉と同型の試作機が、極秘テスト中にこの海域で信号を絶ったという内部情報だ。ブルーアークは熱水孔調査を隠れ蓑に、失踪機の残骸を探し、株主に説明のつく〝成果〟を手に入れようとしている。
2
深夜二時。ROVは波静かな水面を離れ、母船から伸びる光ファイバーの臍帯ケーブルを引きずって潜行する。水深千メートルで外光は消え、モニターに映るのは白黒の闇だけだ。
突然、ヘッドセットにノイズが走った。
――ゴ…ォ……ザザッ。
低い周波数が尾を引き、「…97、97…」と数字が混ざる。
私は凍りついた。NOAA(米海洋大気庁)が一九九七年に南太平洋で記録した未知の超音波「Bloop」。あの解析データそのものが、リアルタイムで浴びせられている。もちろんここは北緯三三度、日本近海。説明のつくはずがない。
3
深度三千五百メートル。ソナーに直径十メートルほどの影が映った。外殻は炭素繊維とチタン合金の混成――観光用潜水艇〈タイタン〉の試作機仕様と合致する。船体は潰れ、展望窓が粉々だ。それだけなら想定の範囲だったが、船首には見覚えのある白いプレートが絡みついていた。
【AFR447 CVR MODULE】
二〇〇九年、大西洋上空で墜落したエールフランス447便のコックピット・ボイスレコーダーの銘板。実物は二〇一一年にブラジル沖で回収・解析済みだ。なぜ太平洋の海底に“もう一つ”がある?
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ROVのマニピュレータでプレートをはがそうとした瞬間、モニターがフリーズした。再起動すると映像は復旧したが、視界中央に潜水艇の丸窓が大写しになり、割れたガラス越しに“客席”が映った。定員五名のはずの艇内に、十人以上の影が折り重なっている。
隅の壁に黒い文字が浮かぶ。
SPRING 1963 THRESHER
――一九六三年、沈没した米原潜スレッシャー号の名。事故で乗員129人が全員死亡した艦だ。タイタンどころか材質も時代も違う幽霊船が、艶のない視界に溶け込んでいる。
5
私は操縦桿を引いたが、ROVは動かない。推進器が逆回転し、艇体の割れ目へ吸い込まれていく。ケーブルテンションが跳ね上がり、母船側から緊急切り離しの警告が飛んだ。
「まだやれる!」と咄嗟に叫ぶ。返事はなく、代わりにヘッドセットに女性の声が割り込んだ。囁きとも呻きともつかない英語――
「…If you hear knocking, don’t open…」
私は思い出した。一九四四年、米潜水母艦タンバル号の事故。潜航テスト中に閉じ込められた乗組員が、船殻を内側から叩き続けたが救出に失敗したエピソード。救助潜水士は「ノックが止まったら扉を開けるな」と命じられていたという。
6
モニターの窓ガラスに、白い手が一つ浮かび、コツ、コツと内側からノックを始めた。二回、三回、四回――十七回目で止まる。十七。エールフランス447便で“GEAD”という暗号を読まれた秒数と同じだと、航空事故マニアの私は知っていた。
途端に艇内の影が一斉にこちらへ顔を向けた。いや、顔のあった場所が刳り抜かれ、黒い水が渦を巻く。
「切り離せ!」私は母船に叫んだ。ワイヤごとROVが分離され、ヘッドセットも途絶える。
7
数分後、母船甲板へ上がると、夜明けの水平線が滲むように赤かった。だがソナー員が叫ぶ。「TAP音、まだ来てます!」
切断したはずの光ファイバー越しに、甲板スピーカーがノックを再生し続けている。しかも一定のパターンがある。私は思いつき、モールス変換アプリへ音を放り込んだ。
… - …- …- (S)
- - - (O)
… … … (S)
SOS。
さらにスクロールすると座標らしき数字が続く。“27°27'05"S 033°00'38"W”。大西洋、エールフランス447便の墜落地点だ。
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その瞬間、海面が泡立ち、切り離したはずのROVの艇首が浮かび上がった。水圧で粉砕されたはずのカメラレンズがこちらを向き、内部の赤いステータスLEDが点いたまま。
「操縦信号なしで電源入るわけないぞ…」甲板主任が後ずさる。
私は立ち尽くしながら悟った。あの深度で交わった残骸たちは、ただ“海難の記憶”を共有するハブだった。潜水艇も、飛行機も、原潜も、海底で圧壊した瞬間、周囲の静水圧がディスクに針を押しつけるように、最期の衝撃波を水中に刻印する。その共振が電気へ化け、ケーブルを伝い、今も〈誰か〉を海面へ呼び戻そうとしている。
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翌朝の新聞の片隅に小さな記事が載った。「伊豆諸島沖 未確認漂流ブイを爆破処理」。写真は私たちのROVだった。海保は爆薬で沈めたらしい。公式発表は“発火の恐れあり”。
だが処理班員の一人が私にだけ耳打ちした。「解体前に開いたハウジングの中、誰もいないはずの操縦席に握り拳大の空洞があった。まるでそこからノックされたみたいに」
10
昨夜拾ったモールス音は今もSSDに残る。ただ再生すると、必ず最後に“17回目のノック”が鳴る。
タンバル号の潜水士の言葉が胸を刺す――ノックが止まったら扉を開けるな。
ファイルの波形は、十六個のピークを示した後、不自然な平坦を描いて終わっている。十七個目のノックは、スピーカーの外、私の部屋の壁で鳴るのだ。
今夜も十六回目まで再生して、私は指を止める。もし再生を続け、十七回目を外の世界に許してしまったら。
エールフランスの乗務員も、スレッシャーの機関士も、タイタンの観光客も、名もなき深海魚のように顔を失った影たちも――その全部が、部屋のドアを叩いてくる気がしてならない。
(了)
――参考とした実在の出来事――
・1997年 南太平洋で観測された不可解な超低周波「Bloop」。
・2009年 エールフランス447便墜落事故と2011年のCVR回収。
・1963年 米原子力潜水艦スレッシャー号沈没事故。
・1944年 米潜水母艦タンバル号事故(艦内ノックの証言)。
・2023年 観光用潜水艇タイタンの沈没・圧壊事故。
・海上保安庁による不審漂流物の爆破処理(報道あり)。