九月一日午前三時の非常階段
八月の終わり、東京は夜でも四十度近い熱帯夜だった。私はフリーの映像ディレクターとして、二十年前に大火災を起こした歌舞伎町の旧「明星56ビル」跡地を撮りに来ていた。解体工事はほぼ終わり、白い防音シートの向こうに骨組みだけのビルが月に照らされている。
撮影のきっかけは一本のメールだった。差出人は「Y」。
『あの非常階段で、まだ待ってる。九月一日の午前三時。カメラを持って来て』
Yは二十年前の火災で亡くなった元同僚・由香里のイニシャルだった。イタズラだろう。だが私は、自分が事故当夜に彼女を置いて逃げたという負い目を抱えている。真相の番組を組むことを名目に、私はビルへ足を踏み入れた。
午前二時五十五分――。
足場の隙間から中へ潜ると、生乾きのコンクリートの匂いに混じって、焦げたカラオケ機器の甘ったるい臭いがした。カメラを回し、非常階段を探していると、急にビル内の空気が真夏とは思えぬほど冷え込んだ。レンズが白く曇る。
視界が晴れると、解体で消えたはずの赤い非常灯が一列に灯り、コンクリの壁に数字が浮かんだ──「5F」。あの階こそ、出口のない迷路と化し、多くが一酸化炭素で倒れたフロア。
私は震える指でRECボタンを押し直した。フロアの奥、シャッターで塞がれた非常階段の前に、人影が立っている。白いブラウスの肩がすすで黒ずみ、長い髪の端が焦げて縮れていた。“彼女”は振り向かず、鉄扉を指差す。その指が、私たちが最後に交わした言葉のようにわずかに震える。
午前三時、携帯の秒針アラームが鳴った。途端に非常ベルの「カン!カン!」という金属音が重なり、ビル全体が二十年前へ巻き戻る。暗闇で煙が湧き、酸欠の耳鳴りがよみがえる。私は反射的に非常階段へ向かった。
踊り場に着くと、鉄板が赤く焼けているのに靴底だけが熱を感じない。代わりに、汗が蒸発していく不気味な涼しさがあった。階下から押し寄せる人いきれ、悲鳴、ハンカチで口を押さえた男女──。だが彼らはみな、静止画のように微動だにしない。時間ごと閉じ込められた亡霊のコマ送りだ。
その群集の隙間に、由香里がいた。血色のない唇がかすかに動く。
「香月さん、撮って……」
私はカメラを構えた。ファインダー越し、彼女は火に照らされず、まるで冷たい水槽の中にいるように青白い。私はシャッターを押す。
フラッシュが闇を裂いた瞬間、数十人の亡霊たちが一斉に顔を上げた。焼けただれた皮膚、すすけた浴衣、溶けた金属片。どの顔にも眼球がない。ただ穴の奥で蛍光灯のような光が淡く点滅していた。
「逃げて」
カメラのモニターにだけ、由香里の声が波形となって揺れた。次の瞬間、踊り場の床板が崩れ、私は煙の井戸へ真っ逆さまに落ちた。胸が焼け、世界が暗転する。
……目を開けると、私は歌舞伎町の路地に仰向けで倒れていた。朝五時の薄明かりがネオンサインを消し、蝉が鳴き始める。胸ポケットのスマホには、映画アプリの通知だけが並んでいた。が、ハンディカメラのSDカードには、真っ黒なフレームがただ一枚。再生すると、最後の一秒で音声だけが残っていた。
「香月さん、今度は逃げられたね」
由香里の声だった。私は膝から崩れ、朝のアスファルトに汗とも涙ともつかぬ滴を落とした。
以来、毎年九月一日の午前三時、あの声で目が覚める。窓の外に非常ベルの残響が漂い、室温が急に下がる。私は二十年前の逃避を、今も撮り直せずにいる。
――実際にあったできごと――
2001年9月1日午前0時35分、東京都新宿区歌舞伎町の雑居ビル「明星56ビル」で火災が発生。非常階段は店舗改装で閉鎖され、消火設備も不十分だったため、ビル内の客と従業員44名が死亡した。事件後、消防法改正や避難経路の徹底が進められたが、跡地では今も供花が絶えない。