火の花が降る歩道橋
真夏の夜、神戸で開催される「みなとこうべ海上花火大会」を、私は十年ぶりに訪れた。大学時代、ともに写真部だった友人の河合が誘ってくれたからだ。
「今年は打ち上げ会場の真向かいにある歩道橋で撮ろうぜ。穴場らしい」
そうメールに書かれてあった。だが集合場所に着くと、河合の姿はなかった。スマホに「先に上がってる。階段を十三段目まで来て」という謎のメッセージだけが残されている。あの男らしい悪戯かと思いながら、人波をかき分け歩道橋へ足をかけた。
午後七時五十分。蒸し返すような照り返しの下、橋の上は驚くほど空いていた。肩が触れ合うほどの混雑を覚悟していただけに拍子抜けする。階段を数えながら上ると、ちょうど十三段目で、背後から強い潮風が吹いた。
――ドンッ!
真上で一発目の花火が咲き、橋桁と私の体が同時に震えた。ひときわ大きい開花音は、鼓膜まで熱で焦がすように重く響く。その瞬間、私の周囲を囲む人々が一斉に振り仰いだ。浴衣姿のカップル、親に肩車された子ども、汗だくの会社員。だが視界に映った次の花火は、色も音も、まったく別物だった。
火の粒が落ちてこない。むしろ“登って”いく。しかも逆再生のように軌跡が巻き戻り、夜空に吸い込まれると闇だけが残る。ざわめきも、スマホのシャッター音も消えた。私は視線を戻す。目の前の人々は肩を寄せ合い、どこかを見上げたまま凍りついたように動かない。
「河合!」
思わず叫んだ。隣の浴衣の女性がゆっくり振り向く。だが眼球は白濁し、頬には火薬の煤のような黒い斑点があった。背筋が凍った。そのとき階段の下から、鉄板を叩くような足音が響き始める。
ガン、ガン、ガン……。
慌ててカメラバッグをつかみ、脇のフェンスに手をかけた。下を覗くと、河合によく似た男が、顔だけ上向けたまま歩を止めている。口が小刻みに開閉すると、ひゅうっと甲高い吸気の音に混じり、「おいで」と聞こえた。
身をひるがえし、私は橋の中央へ走った。が、人影を抜けても、逃げても、そこは終点のない廊下のように続く。湿った不協和音が重なり合い、耳鳴りが叫び声に変わる。やがて闇の向こうに非常灯のような緑の矢印が見えた。脱出口か? 駆け寄ると、それは「←西出口」のプレートだった。そこに打ち寄せる群衆が、無数の腕で私を押し返す。
肩が潰れる痛みに息を呑んだ瞬間、脳裏に熱の記憶が逆流した。――そうだ。この橋では二十年以上前、花火大会の夜に群衆雪崩が起きていた。階段の途中で転倒が連鎖し、下敷きになった人々の意識が、立ち止まった“十三段目”から消えていったと――。
そのとき、上空で火花がまた咲いた。いや、爆ぜたのは私のカメラのストロボだった。閃光に照らされた歩道橋は、コンクリートむき出しの廃墟に変貌していた。ひび割れた床面、錆びた欄干。私の足元に転がるスマホの画面には、先ほどの河合のメッセージが再表示されている。
『先に上がってる 階段を十三段目まで来て 待ってる』
が、送信時刻は「2001/07/21 19:30」。
私は息を呑み、画面を見つめたまま硬直した。その背後で、再び群衆がうねる。押される力で足が浮き、体が後ろへ傾ぐ。潰される――そう自覚した瞬間、耳元で男の声が囁いた。
「撮れよ。逃げずにシャッターを押せ」
振り向くと、河合としか思えない面影が、硝子の向こうの残像のように揺れていた。唇だけが確かに動き、「十三段目で君を待ってた」と続ける。
次の瞬間、橋全体が強烈に傾き、空気が圧縮されて骨が鳴った。私は無意識にカメラを構え、ファインダーを覗く。押し寄せる人波の奥、一人の少女が紙風船を抱いたまま立ち止まっていた。髪は雨のように垂れ、顔半分を隠している。彼女の口が開いた。
「おかあさん、まだ?」
湿った声が直接鼓膜を叩き、私の指が勝手にシャッターを切った。光が弾け、視界が真白に塗り替わる。
――気がつくと、私は橋の下の広場に座り込んでいた。救急車のサイレンはなく、花火大会も終盤の賑わいを取り戻している。周囲には普通に歓声をあげる家族連れ。手首の時計は午後八時三十分を指していた。
持ち上げたカメラの液晶を確認する。最後のカットに、紙風船の少女はいなかった。代わりに、薄闇の階段の踊り場が写り、その中央――十三段目にだけ、焼け焦げたような黒い手形が浮かんでいる。
私の喉から、言葉にならない呻き声が漏れた。背後で河合の名を呼ぶと、人混みから“彼にそっくりな横顔”が一度だけ振り向いた。だが、顔面の右半分が悲鳴の形で凍り付いたように捩れていて、瞬きをする間に人の波へ溶けた。
花火のフィナーレが夜空を染める。赤い大輪が落ちる光の粒は、私にとって祝祭ではなく、十三段目へ引き戻す魔の誘いにしか見えなかった。つま先がそっと後ずさり、私は背中を向けて駅へ走った。――もう二度と、夏の歩道橋には足を踏み入れまい。そう誓っても、花火の爆ぜる音が耳奥で「ドンッ」と蘇るたび、私の魂のどこかがあの階段へ引き寄せられる。蒸し暑い夜ほど、その引力は強い。
――実際にあったできごと――
2001年7月21日午後8時20分ごろ、兵庫県明石市のJR朝霧駅前歩道橋で「明石海峡花火大会」の見物客が集中し、下り階段付近で転倒が連鎖。群衆雪崩となり、11名(うち児童9名)が圧死、247名が負傷した。事故後、歩道橋は改修され、同大会は安全対策を強化して再開されたが、現在も現場には献花が絶えない。