霧の慰霊の森
七月末、盛岡のラジオ局に勤める私は、来月で五十回忌を迎える「雫石空中衝突事故」の特集番組を任された。取材相手は、事故現場に造られた「慰霊の森」を三十年近く手入れしてきた地元ボランティアの白石源一さん。蝉がまだ鳴きはじめる前の早朝、私は録音機材を抱えて白石さんの軽トラックで森へ向かった。
国道から外れ、木立の濃さが増すにつれて、ラジオの受信状態が唐突に悪くなった。ワイドFMのはずが、低いノイズの奥から金属音が混ざる。まるで、どこか遠くの機内アナウンスが断片的に流れているようだった──「……ただいま高度……気温マイナス……」。
「ここ、電波が乱れるんです」
白石さんは淡々と言い、ハザードを点けて停車した。霧が這う坂道を少し歩くと、森の入口に着く。木製の門柱には“昭和四十六年七月三十日”と刻まれたプレート。私はそこで録音を開始した。
鳥の声、足元の落枝を踏む音、そして遠雷。マイクを向けていると、ふいに背後で「ドン」という鈍い衝撃音が響いた。白石さんも振り返る。
「毎年来るけど、やっぱり聞こえるんだよね。遺族の人は“落ちてくる機体の音”って言うけど、実際にはあんな低い音じゃなかったらしい。だけど聞こえるんだ」
私は黙ってRECを続けた。しかし次の瞬間、イヤフォンから別の音が滑り込んできた。子どもの声だった。
「まま……ひこうき、ついたの」
慌ててヘッドホンを外すと、森は静寂そのものだ。白石さんも立ち止まって私を見ている。
「聞こえたんですか?」
「いいえ」
私は嘘をついた。気のせいにしないと、脚が動かなくなる気がした。
慰霊碑に着き、白石さんが線香をあげる。風はほとんどないのに、煙が一直線に斜めへ伸び、森の奥へ吸い込まれていく。私は碑文を撮ろうとカメラを構えた。ファインダーの中でピントが合う一瞬、灰色の制服の袖が映り込んだ。客室乗務員の制服──と気づいたときには、すでに誰の姿もなく、私はシャッターを切り損ねた。
「この裏手に、まだ拾いきれない部品があるんです」
白石さんは草をかき分け、私を促した。苔むした斜面には、小指ほどのアルミ片がまだ点々と残っている。その一つを白石さんがそっと拾い、掌で包む。
「持ち帰っちゃダメだよ。すぐ返す」
そう言って地面へ戻した瞬間、森の空気が急に冷えた。さっきまで薄暗かった霧が青白く光り、木々の合間に“非常口案内の緑色のピクトグラム”がいくつも浮かびはじめる。幻覚なのか、湿気でレンズが曇ったのか──。
耳が詰まり、気圧が落ちたときのようにぼうっとする。遠くからプロペラの回転音が近づき、私はとっさにその方向へマイクを向けた。
「……シートベルト……着用……」
かすれた肉声が録れた。息を呑む私の前で、白石さんが小さくうなだれる。
「たまにね、森が“あの時”に戻るんだよ。ここへ来る誰かを乗せて」
私は足元が震えた。森に招き寄せられたら、帰れない気がした。携帯の画面を確認すると圏外。ただ、バッテリー残量を示すアイコンが二つに分裂し、数値が“162/0”と点滅している。事故の犠牲者、162名。私は慌てて電源を切った。
「帰りましょう」
自分でも驚くほど掠れた声だった。白石さんは頷くと、森の深部へ向かう線香の煙を目で追い、ふっと頭を下げた。
坂を下りる途中、霧は急速に薄れ、蝉の声が耳を刺した。トラックに乗り込むとラジオは正常に戻っており、天気予報の女性アナウンサーが「本日は高気圧に覆われ、東北地方は猛暑日となる見込みです」と朗らかに告げていた。
編集室に戻り、録音データを確認する。森で聞いた子どもの声も、機内アナウンスも、バッテリー表示の異常も、何ひとつ記録されていなかった。ただ、無音の波形の最後に、一度だけ針が跳ね上がる。ヘッドホンを着け、そこを再生した。重く湿った空気の揺れののち、金属が折れる轟音。そして、確かにこう聞こえた。
「おかあさん、みつけたよ」
全身が粟立った。冷房の効いた編集室で汗が滲む。私はマスターキーを押し、ファイルをアーカイブフォルダへ移したあと、恐怖と同じ重さで自分に言い聞かせた。
──もう一度、七月三十日が来ても、私はあの森へは行かない。
そう決めたはずなのに、今年もまた取材日程を組む自分がいる。呼ばれているのか、私自身が呼んでいるのか、もうわからない。
――実際にあったできごと――
1971年(昭和46年)7月30日14時04分、岩手県雫石町上空で航空自衛隊のF-86F戦闘機と全日空ボーイング727-200型機(便名:ANA58便)が空中衝突し、旅客機は墜落・炎上。乗員乗客162名全員が死亡した。現場周辺は「慰霊の森」として整備され、毎年7月30日前後には遺族や関係者による追悼行事が行われている。