八月十二日の山気
風鈴の音が湿った空気にからまり、鳴いたままゆっくりほどけていった。八月十一日、私は新聞社の取材で群馬県上野村にいた。翌十二日は、日本航空123便墜落事故の慰霊登山。毎年、遺族と地元消防団、ボランティアが御巣鷹の尾根へ登り、献花と読経を行う。その前夜、私は尾根の麓で野営する消防団に同行した。
夜十時。山肌に張りつくような雲が月明かりを奪い、炎のない闇が近づいてくる。焚き火を囲み、地元の若い団員が口を開いた。
「この時期、たまに“階段”が現れるんですよ」
階段? 私は首をかしげる。
「闇の中にですね、蛍光色の階段が浮くんです。昇ると、真ん中で耳鳴りがして…気がつくと下に戻されてる。たぶん疲労と霧のせいですけど、先輩は“乗客を送り返す階段”って呼んでます」
笑い混じりの怪談のようで、誰も深追いしなかった。そのまま消灯となり、私はテントに潜り込む。薄い寝袋に入っても、山気が汗と一緒にまとわりついた。
午前二時。耳元で電子音が鳴った。“ピ――ッ、ピ――ッ”。携帯電波がないはずなのに、懐中電灯ほどの距離で何かが点滅している。目を凝らすと、赤い非常灯のような光がふっと揺れた。焚き火跡の向こうに“何段かの足場”が淡く浮いている。あれが噂の階段か。好奇心が勝ち、私は無意識に靴を履いた。
足をかけた瞬間、冷え切った金属の感触。木製のはしごではない。機内のタラップに似た感触だった。三段ほど上がると、突然――“ブワァァン”と耳全体が膨らむような低音が鳴る。機内与圧が失われたときの音だと、後から気づく。視界が霧で白く染まり、足が前へ出なくなった。
そのとき、背後から子どもの声がした。
「まだ帰れないの?」
振り向くと誰もいない。霧の内側から冷気が吹きつけ、手すりの先に十数本の白い腕が絡みついている錯覚が広がる。躍起になって下へ飛び降りた私は、泥にまみれて叫んだ。
「誰か、ライトを! ここに階段が!」
が、焚き火はすでに灰へ。団員たちは熟睡しており、テントの配置も記憶と違う場所に見えた。恐怖と混乱で震えながら、私は地面を這い回った。階段は影すら残さず消えていた。
明けて十二日、慰霊登山が始まった。私は半信半疑で列の後ろを歩いた。標高差は小さいが、湿気と真夏の日差しが体力を奪う。尾根が近づくにつれ、金属の焼けた匂いが混じったような空気に変わった。
やがて事故現場に着く。プレートに「昭和六十年八月十二日 午後六時五十六分」と刻まれている。読経が始まると、ふと昨日の階段が脳裏で揺れた。同時に、耳鳴りのあの低音が再生される。私は手を合わせながら、どこからともなく漂う電子音を探した。
“ピ――ッ、ピ――ッ”。
隣の遺族の男性が胸ポケットを押さえた。ガラケーらしき古い機種が小刻みに光り、彼は泣き笑いの顔で私に囁いた。
「娘が墜ちる直前に残した留守電の着信音と同じなんです」
その瞬間、私はあの夜の階段が“彼らを帰す”ためのものでなく、“ここへ導く”ものだったと悟った。乗客は、まだ山にいる家族を探し、慰霊の列に紛れているのかもしれない。耳鳴りはエンジン音でも気圧差でもなく、届かなかった最後の呼び声だ。
読経が終わるころ、山頂の尾根を強い突風が走った。木々が一斉にしなる音が、巨大な拍手のように響いた。私は思わず頭を下げた。すると地面に散った小石が階段の段差のような形を作り、日差しに反射して蛍光色に輝いた。誰かが足をかける気配はない。けれど私は、二度とそんな“招き”に応えまいと心に誓った。
下山後、麓の公民館で冷たい麦茶を受け取った。コップの外側をつたう水滴を指でなぞると、金属の冷たさが甦る。耳鳴りはもうしない。ただ、いつか八月十二日が来るたび、山気とともに階段が現れる――そんな確信だけが、私の背中を弱く揺らし続けている。
――実際にあったできごと――
1985年(昭和60年)8月12日午後6時56分、日本航空123便が群馬県・御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客524人のうち520人が犠牲となりました。現在も毎年8月12日に遺族や関係者が慰霊登山を行い、現場では読経と献花が続けられています。