雨夜の乗客
その夜、どしゃ降りの雨が降りしきる中、タクシー運転手の山口は、不思議な予感に胸を締めつけられていた。いつもなら繁華街の終電近くは人出も多く、次から次へと乗客が見つかる時間帯である。ところが、その日の街はまるで人気がなく、静寂の底に沈んでいるようだった。雨音だけが車内へ重く響き続ける。
やがて、道端の暗がりで人影が手を挙げるのが見えた。躊躇する間もなく、山口はタクシーを寄せる。傘など差さず、まるで雨など気にしていないかのように、その影は車へと乗り込んできた。
「……〇〇町まで、お願いします」
低い声がそう告げる。山口には、声の主の顔がどこかはっきりと見えなかった。フロントミラーにぼんやりと浮かぶその姿は、髪が濡れて頬に張りつき、服からは水滴がポタポタと垂れている。ドアが閉まると、わずかに生臭い空気が入り込み、背筋に寒気が走った。
〇〇町の住所は、震災で大きな被害を受けた地区だと山口は思い出す。夜道を走っていても、車外は暗く荒れ果てた更地が広がるばかり。道らしい道も残っていない。「こんな場所に人がいるのか……」と疑問を抱きつつ、山口は車を進めた。
目的地は鬱蒼とした廃材置き場に突き当たる。そこで車を止めて振り返ると、さっきまでいたはずの乗客の姿がない。雨に濡れたシートは確かに人が座っていた痕跡を残しているのに、どこにもその姿が見当たらないのだ。慌ててドアを開け、車の周囲を探すが、雨の闇の奥からは人の気配がまったく感じられない。ただ、かすかに「ありがとうございます……」と囁くような声が聞こえてきた気がしたが、それもすぐに雨音にかき消されてしまった。
山口は運転席に戻り、震える指先をハンドルに置く。すると、あれほど降っていた雨がいつの間にか小止みになっていた。わずかな月明かりが、濡れたフロントガラスを鈍く照らし出す。何かが車内にまだ残っているかのような妙な感覚を抱えたまま、彼は急いでその場を離れた。
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■実際にあったできごと
2016年頃、東北地方のタクシー運転手たちが「震災で被害の大きかった地域で、真夜中に乗客を乗せたが、気づくと誰もいなくなっていた」という不思議な体験を複数証言しています。実在する地名や乗車時間など具体的な共通点は限られているものの、彼らが口々に語る「降車後に行方がわからなくなった乗客たち」の話は、当時一部のメディアでも紹介され、大きな話題となりました。実際に幽霊だったかどうかは証明できませんが、人々の記憶に深い余韻を残す、不可解な目撃談として語り継がれています。