夜のベルが呼ぶもの
夏の夜、まだ熱の残る病院の廊下に、誰もいないはずの病室からナースコールが鳴り響いた。深夜勤務の看護師である川島は不意を突かれ、その場で思わず足を止める。看護師として何度も夜勤を経験しているが、空き病室からの呼び出しが鳴るのは初めてのことだった。
廊下の照明は落とされ、非常灯がぼんやりと床を照らしているだけ。人の気配などあるはずもなく、冷房も弱めに設定されているため、湿度の高い夜気が蒸し暑さをさらに際立たせている。川島は絡みつく恐怖を振りほどくように、勇気を出してナースコールの押しボタンがあるはずの空き病室に向かった。
病室はすでに転院や退院で患者がいなくなり、ベッドも整理済みである。扉を開けると、窓から差し込む月光が室内の中央を白く浮かび上がらせただけの、がらんとした空間が広がっていた。鳴り響いていた呼び出し音は、まるで呼吸をするかの如く急に静まりかえり、風の音だけが耳に残る。
「誰か、いますか?」
そう声をかけてみても応答はない。だが、部屋の奥にある壁際に、何かがいるような気配がする。川島は僅かに震える手で照明を点け、恐る恐る視線を向けた。しかしそこに見えたのは、白い点滴スタンドだけで、人の姿はどこにもなかった。残されていた古い点滴の容器が反射で光っていただけだと気がつき、川島は拍子抜けしたように安堵の息をつく。
ナースコールの誤作動かもしれない。そう自分に言い聞かせ、とりあえずコールのコードや機械の接触部分を確認することにした。ところが、どこにも異常は見当たらない。断線もなく、機械の不備もないようだ。仕方なくナースコールの受話器をいったん外し、静かに戻そうとした、その時だった。
受話器越しに、かすかな声が聞こえた気がした。川島は思わず受話器を握りしめ、耳を近づける。しかし何度耳をすましても、今度は静寂しか流れない。さっきの声は空耳か、あるいは恐怖心が呼んだ幻覚にすぎないのだろうか。川島は不安ばかりを抱えながら、そのまま受話器をきちんと置き、病室を後にした。
翌朝、ナースステーションで夜勤の引き継ぎをしていると、何気ない雑談の中に奇妙な話が混ざった。かつてその空き病室には、重篤な患者がおり、夜な夜なナースコールを鳴らしては、助けを求め続けたという。しかし手の施しようがなく、ある夏の深夜に息を引き取ったと。そしてその時間帯になると、ときどき誰もいないその部屋から呼び出し音が鳴る、と噂されているというのだ。
川島は胸の奥がひやりと凍るのを感じた。まさに昨夜の時間帯と符合する。「気のせいだよ」と自分に言い聞かせるものの、最期まで助けを求め続けた患者の思いが、暗い夏の深夜に病室をさまよっているのだとしたら――そう考えるだけで、背筋に寒気が走るのだった。
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■実際にあったできごと
2010年代に入ってから、看護師たちの間で「すでに使用していない病室や空きベッドから、夜勤中にナースコールが鳴る」という体験談が各地の病院で複数報告されています。機械の誤作動やコードの断線を疑って点検しても原因が特定できないことも多く、その都度不気味な噂話が院内でささやかれるそうです。これらは原因不明のトラブルとして処理されがちですが、一部の看護師たちは「亡くなった患者さんの声が届いているのかもしれない」と半ば本気で語っています。真相はわからないままですが、夜勤の病棟には、不思議な空気が流れ続けているのかもしれません。