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怖い話  作者: 健二
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泥涌の夜灯


 八月十二日、私は土砂災害の被災地を記録するため静岡県熱海市伊豆山に入った。前年の七月、大規模な土石流が斜面を襲い、一瞬で住宅街を呑み込んだ一帯だ。梅雨が明けたばかりの真夏日、坂道には熱気と腐葉土の匂いが混ざり合い、遠くから波の音がかすかに届く。

 復旧作業員の宿舎に充てられているのは、被害を免れた旧旅館「潮見館」の離れ。木造二階建てで、裏手は山肌の崩落現場へと続く。現地コーディネーターの溝口さんは鍵を渡しながら言った。

 「夜は裏に近づかんでください。雨も降っとらんのに水音が聞こえるときがあるんで」


 その晩、館内の非常灯だけを点けて写真データを整理していた。二階の廊下は湿気で板が膨らみ、歩くとぶよぶよ沈む。ふと、奥の非常扉がわずかに開き、暗闇から甘い土の匂いが滑り込んだ。

 「ぬる……」

 靴裏が泥に吸いつく感触。足元を見ると、廊下の継ぎ目から茶色い水がにじみ出し、私の影を飲み込むように広がっていた。焦って後退すると、水はすっと引き、床は乾いたままだった。


 深夜一時過ぎ。玄関先で涼んでいると、山側の斜面を覆うブルーシートの向こうからカラン、カランと金属が転がる音がした。暗視用のライトを向けると、泥にまみれた風鈴が揺れている。風は吹いていない。それなのに風鈴はとぎれとぎれに鳴りつづけ、やがて女性の声が混じり始めた。

 「ひと、いないの……?」

 声は掘り残された基礎の隙間から湧き上がり、低くこもっている。身じろぎした瞬間、ライトの光がふいに曇り、背後を泥が滑る音が奔った。振り返ると、廊下の先端で非常扉が激しく震えている。ガラス越しに、髪と服を泥で固めた女がこちらを睨んでいた。

 目が合った瞬間、扉が内側へ倒れ込む。女の姿は消えたが、泥と水が一気に廊下を流れ、私は腰まで呑まれた。濁流の中から冷たい指先が脚を這い上がり、膝の裏で食い込むように止まる。

 「かえして……」

 掠れた声が耳元でちぎれ、私は咄嗟に廊下の手すりを掴んだ。目の前の泥の面が揺らぎ、その下で無数の白い手が蠢いている。手首には時計、ブレスレット、子どものゴムバンド。泥水が喉まで達した瞬間、非常灯が一斉に消えた。


 次に目を開けたとき、私は玄関土間に倒れていた。服は乾き、廊下は元通り。ところが座り込んだ足元に、さっき見たブレスレットが泥をこびりつけたまま落ちていた。淡いピンクの文字で「Miku 7さい」と書かれている。私は震えを抑えきれず、それをビニール袋に密封した。


 翌日、被災住宅の持ち主を探して歩いた。斜面下の遺留品仮置き場で、年配の男性が私の差し出したブレスレットを握り締め、目を潤ませた。

 「うちの孫です。まだ見つからんのです」

 男性は斜面を指さし、声を詰まらせた。私が昨夜水音を聞いたあたりだった。

 「土が流れるたび、あの子が帰ってこようとしとるのかもしれん」

 男性の言葉に、あの濁流の指先を思い出し、背筋が凍った。


 夜、離れに戻ると玄関先に紙袋が置かれていた。中には泥を拭き取った風鈴と、淡い桃色の短冊が一枚。

 「おかえり みんなで おうちにかえろ」

 ひらがなが滲み、水滴が乾いた斑点を残していた。私は離れの梁に風鈴を吊るし、そっと鳴らした。澄んだ音が一度だけ空気を震わせ、やがて山も川も沈黙した。風鈴の影は揺れず、泥の匂いも薄らいだ。 

 この地の夏が終わるまでに、流されてきた声が少しでも海へ帰れますように──私はそう願いながらシャッターを切り続けた。



――――実際にあったできごと――――

2021年7月3日、静岡県熱海市伊豆山地区で大規模な土石流が発生し、住宅や旅館など約130棟を巻き込みました。死者・行方不明者計28名(2023年3月時点)が確認され、現在も一部では遺留品の捜索と斜面の安定化工事が続いています。被災地周辺の空き旅館や民家を作業員宿舎として利用する中、夜間に「水のないはずの廊下に泥水が溢れる」「風のない山側で風鈴が鳴る」といった報告が複数寄せられています。

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