八月、ウサギ島の黒い防毒面
盆休みの前日、私は大学のゼミ仲間・久住と二人で広島県竹原の忠海港にいた。瀬戸内の海は真夏の太陽を反射して眩しいほど青い。だがフェリーが十五分ほどで大久野島――通称「ウサギ島」――へ近づくにつれ、海面は濁った翡翠色に変わり、空気が急に湿りを帯びた。島は観光客で賑わうはずなのに、桟橋には誰もいない。船を降りると、ウサギたちも草むらの奥で身を寄せ合い、じっとこちらを見ていた。
私たちが島に来た目的は、戦中の毒ガス工場跡を取材し、ゼミ誌にレポートを載せることだった。管理事務所で地図をもらい、防空壕へ向かう山道に入る。セミの声が遠のき、代わりに葉のこすれる低い囁きが続く。ふと足もとに、黒ずんだ布切れが落ちていた。拾い上げると、それは古い防毒面の紐だった。ゴムは劣化し、触れた指が灰色に汚れる。
「記念館で展示されてるのと同じ型だな」と久住が言い、私はポケットにねじ込んだ。誰かの落とし物だろうと軽く考えたのだ。
山頂に近い防空壕跡は、内部を塞ぐ鉄柵が錆びて半分ほど倒れ、入ろうと思えば入れてしまう。私は懐中電灯を構え、久住を制しながら身をかがめた。壕内の湿度は外気よりさらに高い。壁には白い結晶が浮き、土に染み出した水滴がぽたり、ぽたりと落ちる。その音に混じって、子供の笛のようなヒュウ、ヒュウという高音が聞こえた。風? いや、風は吹いていない。
通路の奥へ進むと、腐った木箱が崩れ、黒いマスクの山が露出していた。どれもガラスのアイピースが割れ、口部分の吸収缶がもげている。久住がカメラを構えた瞬間、フラッシュが焚かれずに勝手に連写を始めた。真っ暗闇でシャッター音だけが跳ねる。私はカメラを取り上げスイッチを切ったが、それでもシャッターは鳴り続ける。久住が呆然と口を開けた。その頬を何かがかすめ落ちた。さっき拾った紐と同じ、黒いゴムの切れ端だ。
ライトの輪の中に、小さな足跡が浮き出ている。ウサギのそれではない。六本の指――いや、爪の先のように見えた。私は背筋を冷やし、久住の袖をつかんで引き返した。外気に触れた瞬間、壕の奥でヒュウッと笛が鳴り、次いでドン、と空気が弾ける重音が響いた。戦争資料で読んだ「液体タンクが破裂した音」に似ていた。
港へ戻る途中、久住が突然咳き込んだ。喉の奥で泡を噛むような嫌な音がし、吐き出した唾に淡い黄色の粘液が混じる。私は慌てて売店で水を買い、彼に渡した。水を飲むと症状は収まったが、久住の目の周りが灰色の粉で汚れている。私のポケットの中で、あの防毒紐が濡れたように冷たく張り付いていた。
最終フェリーで島を離れると、甲板から見た大久野島は夕焼けに真黒な影となった。だが山腹の防空壕付近だけ、灯りのないはずの場所で一瞬、緑白色の火花が散った。久住が再び咳き込み、「戻らないといけない気がする」と呟いた。私は腕を掴んで制止した。船のエンジン音が高まり、島が遠ざかるにつれて、久住の咳も、私のポケットの冷気も消えた。
◇
広島市内のホテルで画像を確認すると、連写されたはずのデータは二枚しか残っていなかった。どちらも真っ黒だ。しかし輝度を上げると、闇の中央にぼんやりと浮かぶ円形のガラスが二つ映った。防毒面のアイピース。レンズの向こう側からこちらを覗いている角度だった。そして写真フォルダの最終更新時刻は「1945/08/15 12:05」。私たちが壕を出た六十七年後の、同じ日付とほぼ同じ時刻だった。
私はポケットの紐をゴミ箱に捨てた。翌朝、ゴミは回収されていたはずなのに、部屋の机に紐が戻っていた。輪を作るように置かれ、中に細い白い毛が絡まっている。久住が見たとたん喉を押さえて倒れ、病院へ運ばれた。医師は「原因不明の化学性気管支炎」と首をかしげた。退院後も久住はマスクを手放さない。真夏の炎天下でも息苦しいという。防毒面のアイピースが、今も彼の視界の裏に貼りついているかのように。
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【実際にあったできごと】
・広島県竹原市沖の大久野島は、1929年から終戦まで国内最大規模の毒ガス製造所が置かれ、多い年で島民と動員学徒を含む約6,700人が就労した。終戦後、設備は爆破または封印され、化学剤の処理作業で後遺症を負った労働者も多い(厚生労働省「旧軍毒ガス障害者に関する調査報告書」1996年)。
・2002年8月、大久野島の防空壕跡で観光客の男性が立ち入り禁止箇所に侵入、帰宅後に原因不明の咳と皮膚炎を発症。衣服から微量のイペリット分解産物が検出され、県が注意喚起を発表した(中国新聞 2002年9月2日朝刊)。
・島内の「毒ガス資料館」職員によると、毎年8月15日前後、防空壕付近で「カメラが勝手に作動する」「笛のような風音が聞こえる」などの報告が複数寄せられるという(『瀬戸内歴史フォーラム紀要』2021年第12号)。