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怖い話  作者: 健二
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「吹雪が止むとき、洞(ほら)の中で」


 私がウラルへ向かったのは二〇二二年二月、ロシア国営テレビの依頼で「ディアトロフ峠事件」の新説を検証するためだった。かつて大学山岳部員九人が謎の死を遂げた一九五九年二月二日と、まったく同じ週。その偶然を面白がるディレクターに連れられ、私は環境音とインフラサウンド(可聴下音)を録りに行く仕事を引き受けた。


 峠手前のベースキャンプで、現地ガイドのスタセフが古びたポラロイドを見せてくれた。雪原に立つテントの亡霊のような影――一九九三年、遺体のない「第二のディアトロフ事件」と呼ばれた行方不明者捜索時に撮られたという。フラッシュが映したのは、引き裂かれた幕と、雪面へ延びる裸足の足跡だけだったらしい。


 午後三時。気温は氷点下二十度。私たちはスキーで古い事件現場へ入った。テントを張り、録音機をセットする。いまは軍用にもなる全天候型のナイロン製だから、あの時代のコットンよりはるかに丈夫だ。それでも風速二十メートルを超えれば裂ける。その葬式のような静かな予感が、薄い布越しに伝わってくる。


 夜半、ロシア軍の衛星電話が不意に鳴った。だが着信画面には番号も電波強度も表示されない。ただスピーカーから、遠い吹雪のようなホワイトノイズが溢れ続けている。私は録音機を電話に近づけた。波形が突然跳ね上がり、耳をつんざく低周波の振動がテントの骨組みを共鳴させる。雪面を通した不可聴音が、内臓を押し返してくるようだった。


 「これは山鳴りです。気圧差で発生する」とディレクターは言ったが、スタセフが首を振った。

 「違う。ディアトロフの時に聞いた証言と同じだ。キャンプから七百五十メートル離れた森で“風が裂ける音”がした、と」


 私はイヤフォンを差し込み、ノイズの奥を探った。すると規則的な呼吸の音──吸気、吐気、そして呻き──が交じっている。雑音ではなく、マイクの至近にいる誰かの肺が震えていた。私は慌ててゲインを絞った。隣で眠る仲間の寝袋は静まり返っている。なのに鼓膜の中だけで、人の吐息が凍って溶ける。


 その瞬間、テントの天頂が鋭利な鉤爪で引っ掻かれたように裂けた。粉雪が暗闇に流れ込み、ランタンの光は一気に吸われる。ディレクターがジッパーを開け逃げようとしたが、吹き込む風は外側から封をするように幕を押し戻した。私はナイフを抜き、幕を内側から切り裂いて脱出した。あの九人と同じ行動だ、と理性の奥で誰かが笑う。


 外は地吹雪で視界が三メートルもない。私は録音機を片手に、風下へ転がるように走った。雪面に点々と並ぶ足跡は、自分のものか他人のものか判別がつかない。足裏に感じる粉雪が、急に氷の層へ変わった。雪原ではなく、洞穴の天井だった。私は薄氷を踏み抜き、暗い空洞へ落ちた。


 ヘッドランプが照らす先に、黒光りする岩肌が続いている。洞の奥から、先ほどの低周波が内壁を伝ってうなり、耳石を揺らす。足元には折れたスキー板が埋まり、古い黒いブーツが氷に噛み込んでいた。タグには「ドロシェンコ」と読める――一九五九年、胸部骨折で死亡したハイカーの名だ。公式調書では装備はすべて回収されたはず。では、これは何だ。


 私は慌ててブーツを引き抜こうとした。氷が割れ、空気が吸い込まれる。白い霧の中から、人の手首が表れた。皮膚は黒ずみ、指先が欠けている。噛み千切られたような歯形。ディアトロフの遺体の一部は“放射線で色が変わっていた”と報告書にある。ガイガーカウンターの警報が鳴り出した。こんな山奥に、今も放射性物質が残るのか。


 手首は私の袖をつかんだ。冷えすぎて痛覚が麻痺し、ただ重い。引き剥がそうとしても離れない。耳元で、あの呼吸音がはっきりと声になる。


 「戻れ。凍れ」


 吹き上がる雪煙のなか、白い顔が浮かんだ。目は空洞、口は裂け、舌がない。事件の遺体と同じ損壊だ。私は咄嗟に録音機を差し出した。赤い録音ランプが幽霊の瞳に映え、声波を吸う。相手は瞬いた。手首の力が緩んだ隙に、私は洞穴の傾斜を這い上がった。雪原に顔を出すと、吹雪は嘘のように止んでいる。


 テントは跡形もなく、仲間の姿もない。無線のLEDだけが雪面で瞬く。私は救難信号を打とうとしたが、周波数表示に数字の羅列が流れている。1、9、5、9、0、2、0、2──一九五九年二月二日。それが何度も上書きされ、最後に一桁だけ変わった。


  2 ←現在の年。


 現地時間の午前三時二十五分、私は送信ボタンを握り締めたまま凍えていた。遠方の空が青白く光り、稜線上を丸い火球が横切る。目撃証言にあった“オレンジ色の光球”だ。録音機はまだ回り続けている。スピーカーから再び呼吸音が漏れ、やがて肉声が雪を叩く。


 「十人目……完了」


 私は機械を叩き壊し、闇のなかを走った。翌朝、救助隊に発見されたとき、ジムニーに積んだ機材は無事だったが、隊員の一人が呟いた。「テントの布、内側から切られていたぞ」。私は返事をせず、ただ山に背を向けた。


 帰国後、編集室で音声ファイルを開いた。波形のピーク値を結ぶと、見覚えのある地形図が浮かぶ。九つのピークが峠を示し、その下に私が落ちた洞穴が小さく描かれている。そして右端に、未編集の十番目のピークが赤い警告色で点滅していた。再生ボタンを押すと、寒気すらない東京の夜に、あの声がまだ生きている。


 「次は、ここへ」


                           (了)


【実際にあった出来事・引用】

・ディアトロフ峠事件(1959年2月、ウラル山脈で学生9人が不可解な死を遂げた未解決事故)

・一部遺体に舌欠損、胸部内側骨折、衣服から微量放射線が検出された公式調書

・1993年、同地点近辺でハイカーの空テントのみが発見され行方不明になった報道(ロシア地元紙『コムソモリスカヤ・プラウダ』)

・2020年、ロシア検察が「雪崩説」で再調査を終結したが決定的証拠はなし

上記は事実として記録されているが、本編の登場人物・体験は創作である。

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